ゴータマ・ブッディズムの生活

釈尊の歩み

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     誕生仏像
   奈良 慎悟寺蔵

  「原色日本の美術2」
        小学館刊

真の『私』の誕生

紀元前566年4月8日ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さまの名前)は釈迦族の王スッドーダナと妃マーヤの子として、北インド、カピラ城郊外のルンビニ園、無憂樹のもとに生まれた。   お経によれば、七歩あるいて天と地を指さし、「天上天下唯我独尊」と言ったという。

『釈尊読本』より

 

私達は、すぐに、自分と他人を比べて一喜一憂する。

 事実は、私も他人も、それぞれ唯一つ(ただひとつ)の存在(もの)であって、比べようがないのに。

誰しも「私」が可愛い。その執着(しゅうじゃく)が、だからこそ「他人(ひと)」を愛する。

と転ずる一点がその「唯一(ゆいいつ)」である。

 

    

   視 点

 

 私たちは気がついたら生まれていた。別に注文したわけでもない。予定があったわけでもない。気がついてみたら、人間として生まれている私がいた。

 釈尊は生誕の直後に七歩あゆんで「天上天下・唯我独尊」と宜言されたという。

 それは、仏が生まれたということの意味を物語っているのである。

七歩あゆむということは、六つで数えられている迷いの道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道)を一歩出るということであり、

天上天下・唯我独尊ということは、独立者ということである。

 自分に目ざめ自分に帰ったときに、はじめて人間は独立することができる。人間に生まれたという、この好機を見失うならば、百年生きても生きたことにならない。

 もしも自分に目ざめ自分に帰ることがないならば、生まれてきたこと自体が無意義だといわねばならず、それでは他の誰かに済まないというよりも、自分に申し訳ないことになる。

 釈尊の生誕には、私たちが人間に生まれたことのまことの意義を明らかにされたという意味がある。

 釈尊は人間として生まれ、その生涯の歩みの中で、私たちと同じく迷い悩み、そしてそれを克服された。

 釈尊の歩みは、人間というものは、迷ったり悩んだりするとともに、また迷いから目ざめ悩みを越えることのできる存在だということを語りあらわしている。

 したがって、全人類の生誕の意義をあきらかにしたのが、釈尊の生誕であった。

               『釈尊読本』....東本願寺発行

 

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