はじめに
[心のこもったお葬式を考える会とは]

【お葬式の現実】

 以前、ニュースキャスターの筑紫哲也さんが「週刊金曜日」に「なぜ私は葬式をかくも嫌になったのか」という一文を書かれていました。要約しますと、
  儀式そのものを否定する気はないが、故人を悼み、見送るにふさわしくないという思いが募る。仏式 は、ほとんど内容を理解できない読経が不当に長い。キリスト教式は逆に神父の説教が不当に長く故人をよく知らない神父の空疎な言葉は意味がわかるだけに、一層苛立ちが募る。
宗教儀式から離れた形式も試みられているが、やはり形が整わず、儀式の持つ区切り、ふんぎり性は弱い。社会が金銭的に豊かになにつれ、義理で顔をだす者には好都合な儀式性が強まっていった。やはり、私は葬式嫌いだ。
誠にもっともな意見だと思います。そこまで「お葬式」が形だけになってしまっているということでしょう。現代日本を象徴する「東京」という街では、最近では葬儀社の社員が、お坊さん「役」を勤めることが始まっているそうです。間違いなく、見栄えがよく、お勤めもうまい方が勤められ、派手なパフォーマンスで、儀式が盛り上げられるのだろうと思われます。また一方、「何宗の葬儀でもやります」というお坊さんまでおられるそうです。
 長らく、お坊さんとか既成仏教教団は「葬式仏教」と揶揄されてきましたが、ここまで来ますと「葬式仏教」でさえなくなり「葬式ショウ」というショウビジネスでしょう。そこでは、もうお寺や坊さんなんか必要でないということです。
 しかし、本当にそれでいいんでしょうか。
狭い意味での「宗教者」や「宗教施設」は必要ではないかもしれませんが。その底に、現代日本の誤った宗教観があるように思われます。

【宗教とは】

 これももうだいぶ前になりますが、黒沢明監督が亡くなられたとき、新聞に「無宗教で葬儀を執り行います」という記事が載ったことがありました。ほとんどの方はすっと見過ごされたのだろうと思いますが、実はこんなおかしな表現はありません。  なぜ人間は親しい人が亡くなった時、その方を偲んだり、送る場を持つのでしょうか。それこそが宗教(心)ではないでしょうか。横町のノラネコがどれほどお互い親しく生きていたとしても、仲間が死んだからといって、見送る儀式をしたことは、見たことも、聞いたこともありません。彼らは自然に生きていますから、そんなことは必要ないのです。人間だけが、その親しい方の死を受け入れるのに手間がかかる。それこそが人間の人間たる所以なのです。ネアンデルタール人の墓に花が手向けてあったそうです。人間ももちろん動物の一種に違いありませんが、相当特殊な種なのです。それこそ人間と動物の境目でしょう。  ですから、仏教だとかキリスト教だとか、天理教、創価学会、霊友会、生長の家、等々宗派はいろいろあるでしょうが、そんな宗教に囚われることなく、本当の意味で、その方をお送りする、お別れする、そしていつまでも変わらない「教えとなったその方に出会い続けて行く」きっかけを開いてくださる「場」を持つことは、どんな人にとっても大切なことではないかと思うのです。もちろん、最近行われ始めた「自然葬」なども、それが亡くなられた方々と、残った私とのつながりを確認し続けられるものであるなら、とても結構なことだと思います。

【一人の仏教者として】

 私たち「心のこもったお葬式を考える会」の活動は、一人の仏教者として、そのような残念な世間の現状を前にした疑問から始まりました。が、それでは「あるべきお葬式」とはどんなものなのでしょうか。それは、冒頭の筑紫さんの一文の裏に表現されているように思えるのです。それは、

  1、 亡くなった方と信頼のある人間関係を持つ、その人のひととなりをよく知る宗教者が儀式を執行する。 2、 単に決められた形式にとどまらず、葬式、死、その人を送るということ、といったことを巡って、お互いに通じ合う言葉で語り合う。 3、 儀式を単なる通過儀礼に終わらせるのでなく、私たち仏教者であれば、残された方々に仏事を伝えていく、仏縁を開く出発にしていく。

と、要約できるのではないでしょうか。

 そんな「あるべきお葬式」を実現させるために、私たち「心のこもったお葬式を考える会」のメンバーは以下の事を提案致します。
 
1、 お寺の本堂を使って頂いて、それぞれの地域の「規格葬儀」に代表されるような、比較的安価な葬儀もさせて頂きます。もちろん希望によって豪華なものでもかまいません。 2、 但し、葬儀の後の仏事、法事などを、その後、質素でもよいから続けていって頂くことをお願いいたします。 3、 普段から仏事をはじめ、いろんな生活上の事々について相談をお受けします。

 さあどうでしょうか。私たちと「生き死に」の事々について語り合いませんか。 ご意見、ご批判、お寄せ下さい。
                                          (文責 清 史彦)
トップページに戻る