名 前 木村 慶司(きむら けいじ)) 寺院名 栄 照 寺(浄土真宗本願寺派−お西) 住 所 大阪市城東区今福南一丁目五番二十一号 T E L 06−6931−7817 F A X 06−6931−9831 |
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《私の葬儀哲学》 既成仏教教団は、「葬式仏教」と批判を受けて久しいですが、最近は「葬式」ですら形式的に済ましてしまっているように思います。また喪主を始めとする親族の側にも、「坊主はお葬式だけやってくれたらいい」「世間体に恥ずかしくない程度のことをやればいい」こんな意識を持っておられる方が多いのではないでしょうか。 その理由はいろいろ かんがえられますが、私は「葬儀は一体誰のために、どんな目的で行うのか」といった意識が希薄なためであることが一番の理由であると考えます。 私が思うに葬儀の目的は、親しい人の死という深い悲しみに出会った私が、葬儀を通して、今ここに生きている私も、周りにいる人たちも、すべての人はいつかは死んでいかなくてはならない、そして、私自身の「いのち」を問い直していくこと、言い換えれば、死を通して生を見つめるということであると考えます。ですから「葬儀は誰のために行うのか」という問いは、「私のいのちとは何なのか」という問いでもあるのです。 葬儀は親族も会葬者も含めた参列者一人一人が自分自身にこの問いかけをする儀式なのです。 死を通して生を見つめるための儀式は葬儀だけではありませんが、是非、葬儀という儀式を通してこのことを考えてみていただきたく思います。 《葬儀の形態》 「私のいのちとは何なのか」という問いを、その答えを私に知らしてくださる方を「仏」と呼びます。この世の命を終えられた方が「仏」と成られたと感じ取れる形態が理想です。その方の「生き様」、「死に様」を垣間見られるものが個人的には良いと思っています。 しかし、このことを形に表わすことは非常に難しいことです。まして、参列者全員に納得のいくものは不可能かもしれないとさえ思っています。 そこで私は、常日頃から葬儀あるいは「生と死」というものについて語り合い、その中から形にできるものを、それぞれの人と一緒に作っていきたいと思っています。ひょっとしたら、こういう一連の流れ全体が、本当の「心のこもった葬儀」なのかもしれません。 《フリースペース》−出会い− 人は自分一人では生きていけません。本当にたくさんの人の支えや、お育てで今こうして「私」は生きています。そこにさまざまな出会いがあります。 私も今までにさまざまな出会いがありました。もう忘れてしまったようなものから、忘れることの出来ないものまで、人との出会いだけでなく、出来事との出会いや時間との出会い、別れも出会いの一つでありましょう。 今の私にとって、出会いは可能性を広げてくれるもの、という感じがします。ちっぽけな私が何かと出会うことで、今まで出来なかったことが出来るかもしれないと思えてくるのです。 いつまでも「出会いってすてきだな!」と感じられればいいですね。 《自己アピール》 1970年生まれ。堺で生まれ、富田林で育ち、高校のときから現在のお寺に。以前は老けて見られていたが、最近は年より若く見られることが多いのはなぜ?「苦労が足らん」ということだろう。私のところのお寺の売り物は、何といっても本堂。現住職(私の父)のセンスで、ちょっと他にはないものになっている。よかったら見学がてら、お参りに来てください。 葬儀関連布施 標準例 (二名出勤の場合) |
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本堂・ホール使用料 | ||||||||||||||||
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葬儀時の本堂収容人数は30人〜40人で、その他の場合は50人程度 ホールは収容人数20人〜30人で控え室や飲食などにご使用下さい。 |