◎どのようなお葬式をするのか

 お葬式をどのように勤めるかということも、一般に当たり前とされていることの中に、よく見てみるとおかしなことが、いろいろあります。  例えば、亡くなった方に全く関係の無い「議員さん」の名前が「代表焼香」として読み上げられたり、同じく本人には関係の薄い「会社の弔電」が長々と読まれたり、こんなことは本当にお葬式に必要なことなんでしょうか。  以下、いろいろ考察してみます。
○ お香典(御香資)を考える

[お葬式の私有化]

 最近「お香典は辞退申し上げます」というお葬式が増えてきています。施主さんのお気持ちは『自分たちの力で、お葬式くらい出すことはできる。他人の協力まで期待しなくともよいのだ』とか、『今後、お付き合いができないから、今、断っておこう』とか、場合によれば、『お返しの作業が大変だから、お香典は受けとらないでおこう』という方もおられるかもしれませんが、どちらにしても、「善いこと」だと思ってなさっているようです。しかし、これは、本来のお葬式のあり方からは遠く離れてしまっています。  元々、お香典という伝統、習慣は、本来の「互助組織」というものであって、お葬式という物入りなことを「つながりのある皆で出し合いましょう」「皆でお葬式を出しましょう」というものなのです。  たとえば「村八分」という言葉が昔からありますが、それは全くの縁切りという意味ではなく、二分残っているということで、それが、火事と葬式だったのです。「村八分」の者でさえ、葬式はみなで勤めたということが意味することは、葬式は身内のものだけのことではない、極めて「公(おおやけ)」なことだということなのです。  今は「互助会」なんて、半分、詐欺みたいな会社が出来てきていますが、元々は「お香典」こそ、本来の「互助会」であって、要は「集まるお香典」に見合った「お葬式」を挙げればよいということなのです。付き合いの広かった人は、たくさんの人がそのお葬式に参られ、お香典もたくさん集まるから、それに合った大きな式を挙げればよいですし、付き合いの少なかった人は、それなりの規模の式をすればよいだけで、どちらが、良いとか悪いといったものではありません。  何故こんな奇妙なことになってきているのかというと、それは要するに、葬式を自分たちだけのものにしてしまっているということではないでしょうか。   この「私有化」は現代の一番の「病い」であって、土地や金の私有化に留まらず、今や人間や動物や、さらに、「いのち」までも私有化してしまっています。お葬式もその例外ではないということなのでしょうが、そこで、じっくり考えてみてもらいたいのです。  どれほど親しい家族や親族であったとしても、亡くなられたその方が、家族や親族の中だけで生きて来られたのかというとそうではないでしょう。必ず回りのいろいろな人々とつながりあって生きてこられたはずです。もちろんそのつながりは都合の良いことばかりではないでしょう。イヤなヤツもいたでしょうし、向こうから嫌われているということのあったでしょう。でもそれらも含めての「つながり」ではないでしょうか。「村八分でも」の意味はそこにあります。 (文責 清 史彦)

○ 「満中陰志」など「お返し」を考える

   いつから「お返し」なんてことが広まったのか、よくわかりませんが、少なくとも現在の習慣、とくに「半返し」などは、どこかのギフト屋かデパ−トの陰謀ではと思うほど、とても変なことです。  上に述べたように、お香典は本来、お葬式に使って下さいということで、持って来られるお金なのですから、「お返し」は本来必要のないものです。そこで、例えば、「お香典は喜んで受け取ります。お返しは致しません、十分にお葬式に使わせて頂きます」と受付に掲げることなども、本来的で素敵なことではないでしょうか。会葬者への「御礼の品」をその分良いものにしてもいいし、たっぷりお葬式に使って、余ればお世話になった、お寺や、福祉施設などに寄付することなども本来的なことです。  お金や物ばかりでなく「お付き合い」にも「お返し」という変な思い込みがあります。「お香典を受け取ると、先方の時に香典をせなあかん。その付き合いが面倒だから」「今後、お付き合いができないから、今、断っておこう」という人がおられます。  しかし、「将来、失礼になるから」と言って、今、先様の気持ちで持ってこられるお香典を断るなどということは、それこそ「今、もっと失礼なことをしている」ということではないでしょうか。本来、「今のお香典」は「今のつながり」の中で自由にそれぞれの気持ちを表すものであって、その事はその事で完結していなければなりません。もし先方に何かあった時は、それはその時のお互いのつながりの中で、こちらの考えでやればよいことで、それもそれで完結していなければなりません。  まして「お返し」を期待してお香典を包むなんて、とんでもないことですし、『半分返ってくるだろうから、これだけ包んでおこう』などという考えは、本当に論外なことです。

 ここで取り上げた、代表焼香、弔電、お香典、お返し、以外にも、いろんな問題があります。結局、それら全て、あまりに私たちが「お葬式」のことを日頃、考えてもみないということに帰着します。何も知らないから、葬儀社の言いなりに、決められた様に勤めてしまうのでしょう。 一人の人間のかけがえの無い一生の最後の「一大事」が、そんな「通過儀礼」でいいのでしょうか。「一丁上がり」でよいのでしょうか。そんなはずはありません。  「私は、こんなお葬式で、この世を去って行きたい」「私は、こんな形で親を送りたい」いろいろあってよいと思います。好きな音楽を流してもよいでしょう。そんな相談も私たちは、お受けしたいと願っています。それは、当然、あなたの今の生きざまを問うことになるでしょうから。(文責 清 史彦)

○ 法名と戒名を考える

 世間一般では、「法名」あるいは「戒名」は死んでからの名前と思われていることが多いようですが、そうではありません。  浄土真宗では「法名」、日蓮宗では「法号」、その他の仏教各宗では「戒名」とよびますが、これらは何れも仏教徒としての名前です。  元々「戒名」は、仏道修行する上での規律(戒律)を守ることを誓う受戒の時に師よりいただく名前であり、「法名」は、浄土真宗では戒律がなく受戒もしませんので戒名とは呼ばず、仏法をよりどころとして生きる証しとしての名前です。よって「法名」や「戒名」は決して死後の名前ではなく、生きている今、仏教徒として生きていく決意をした時に、授かるのが本来であります。しかし生前にその機会がなかった人であっても、葬儀のときに授かることができます。  また、「長い戒名(法名)ほど位が高くていい」などと、娑婆世間での欲を仏法の世界にまで持ち込めると思っている人もあるようですが、この意識も正しくありません。「法名」「戒名」は基本的には2字だけであります。上に院号や下に位号(居士等)がつく場合がありますが、これらはあくまでも飾りで、寺や宗派に大きな貢献をされた人に贈られるものです。名誉や見栄のためにお金を払って長い名前をもらおうとするのは筋違いであると覚えておいてください。  尚、「法名」や「戒名」をどのようにしたらいただけるかは宗派によってさまざまですので、宗派の本山や各寺に問い合わせてください。(文責 木村慶司)

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