王舎城の悲劇(1)
観無量寿経を巡って

講師 中川皓三郎先生

□95年1月の講話より(第1回)

観無量寿経へのいざない(1) 

仏教は私達の生きる世界を「穢土(えど)」と押さえますが、この『穢』について私は、人間のエゴイズムの問題を思います。エゴによって穢(けが)されている土ということです。歎異抄に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」とあるような世界です。

人間はどれ程小さなものであろうとエゴがある限り、ひとつになれません。作家の川端康成氏は「美しい日本の私」と言われたけれど、このような『美』や、また戦争中よく使われた『大義(たいぎ)』といったものは、エゴを捨てさせるものとして、ある種自分自身の解放でもあるのです。ひとつになれるようなものとして、人を酔わせるのです。

ところが、そのようなあり様全体がエゴなんです。なぜなら、人のエゴとエゴとが対立する具体的な場にふみとどまって、その問題を解くということではなく、その場を捨てて、自分が描いた、作り上げた世界へ逃げてしまって、現実を見なくなってしまうからです。 

観経もこのエゴの問題です。親と子が殺し合うわけですから、そう簡単に解けるものではありません。

王舎城の王の家族の中で、一人息子のアジャセが父親のビンバシャラを塔に閉じ込めて、王になり、母親のイダイケを殺そうとした事件です。 

観音菩薩・阿彌陀如来・勢至菩薩

安田理深師がよく言っておられたように、「どこにでもある社会面の事件」なんです。ところが、その出来事が、浄土という世界、人と人とが、本当に切れることがない交わりを持つことができる世界をあきらかにする縁になった。

仏教の五戒の第一は『殺すな』です。確かに、私達自身も人と人とが殺し合ったり、他の生き物を殺してしまうことに、何か問題を感じます。ところが、私達が生きることは、他のいのちを奪っているということです。お互いにエエカッコできないんです。不殺生戒の正しさを認めつつも、殺さずには生きられない人間にすくいはあるのか。これが観経の課題です。私の問題としては解けていないが、「解ける」と言った人がいるんです。 

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設我得佛 國有地獄 餓鬼畜生者 不取正覚

[無三悪趣の願]

もし我が佛の位を得たとき 
国の中に
地獄、餓鬼、畜生という情況が有るのならば
我は正覚を得たとは言い得ない
 

『佛説無量寿経』より

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