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正信偈講話聞書 |
仲野良俊先生述 |
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帰命無量寿如来 (きみょうむりょうじゅにょらい) 「無量寿如来に帰命し」 正信偈は我が浄土真宗の伝統です。宗旨がわからない人でも、 『きみょうむりょうじゅにょらい』で了解できる。たとえ宗祖の名を知 らなくても、『きみょうむりょう』が何かと親しみを持たれている。 これがまた全国津々浦々です。例えば、秋田の人々と鹿児島の人がいっ しょになって、話は通じなくても、正信偈はいっしょです。これは見事 ですよ。 親鸞聖人の宗教において中心になるのが正信偈です。 真宗の教えの内容は、いろいろありますが、正信偈さえわかれば、 それでよろしい。私の寺でも機会あるごとに正信偈を勤めていますが。 その中身を知って行ってもらいたい。
(なむふかしぎこう) 「不可思議光に南無したてまつる。」 正信偈は親鸞聖人のお書きになった『教行信証』という真宗の大切な根 本聖典の中にあるんですが、これを書くために、正信偈をお作りになっ たのだけではないようです。在家の人がお勤めができるようにと、作ら れて『教行信証』の中に入れられた。いわば、我々のために作られた。 これによって我々在家が、仏に近付けたんです。我々は正信偈で結ばれ た門徒です。
爾者帰大聖真言、閲大祖解釈、信知仏恩深遠、作正信念仏偈曰 (『偈前の文(げぜんのもん)』) [読みと意味] しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを 信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、 大聖/だいしょう=お釈迦さま 真言/しんごん=お経 大祖/だいそ=七高僧 解釈/げしゃく=論・釈 閲して/えっして=見て
正しくは「正信念仏偈」と言うが、宗祖自身が「正信偈」と呼んでいる。 たとえば、尊号真像銘文では『和朝愚禿釈の親鸞が「正信偈」の文』と 出ている。
「正信」というたら、「念仏」はいわんでもええ。これがご開山(親鸞 聖人のことを真宗門徒は「ご開山」とお呼びしている)の立場です。 信心があれば念仏は当然ある。しかし、念仏があるからというて、信心 があるかどうか、これは判らん。 南無阿彌陀佛が成就して「信」になっとるんやから。殊更「念仏」を 言わんでもいいんです。
謹んで往相(おうそう)の回向(えこう)を案ずるに、大行あり、 大信あり。 大行とは、すなわち無碍光如来の名(みな)を称するなり。(行巻)
謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。(信巻)
「行」と言えば、必ず「信」をいう。お念仏があり、お念仏を頂いた心 があると。ところが「信」を言うたら、「行」はもう言わんでもよい。 ご開山は「信」を大切にした。「念仏」をあんまりおっしゃらん。 『教行信証』の行巻は正信偈で締めくくってあるしょう。念仏を信心で 締めくくっているんです。これが正信偈です。 このテーマはここまで。 |
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