年頭の挨拶
2010年 年頭の挨拶
この年頭の言葉は、ご存知、来年の親鸞聖人七五〇回御遠忌法要の真宗大谷派のテーマです。
数年前初めて示されたときには、「こんな日本語はない」「いのちなんて真宗ではない」といった、散々な評判でしたが、
今になってみると「現代を射抜く、大切な言葉だなぁ」という感じが広まり深まってきています。
この辺りは、奈良の平城京一三〇〇年のキャラクター、当初は「キモイ」と言われた「セント君」が、
最近は、「キモカワ(気持ち悪い可愛いさ)」と言われてきているのに似ているなと思います。
さてテーマの言葉に戻りますが、これは仏教の真髄を言い当てるている言葉です。
すなわち、「身土不二(私と回りは繋がっていて分かれていない)」「無量寿(永遠無限のいのち)」といった真理です。
現代は、「個」の大切さを強調してきましたが、それが「孤立した個」になってしまいました。が、真実はどうでしょうか。
私たちは一人ひとりは、長くても百年くらいしか生きませんから、その限られた目から見れば、
「個々バラバラないのち」を生きているように思えます。が、阿弥陀なる、永遠無限といった大きな目から観ればどうでしょうか。
あらゆるいのちはつながり合って生まれ変り死に変り、めぐり廻っているのではないでしょうか。
私たちの身近なことを考えてみて下さい。「私」生まれるには、必ず父母が在りました。
父母にもその父母がおられ、それもはどこまでもさかのぼります。
その永遠なるいのちのつながりのどのお一人がおられなくても「私」は在りません。
このように、「私」には阿弥陀なるいのちの背景があるのです。また毎日の私たちの食事を考えてみましょう。
どれほど健康な人でも、一週間ほど食事を摂らないと死んでしまいます。
これは、日々いただく食事が私のいのちとなっていることを意味しています。現代の日本人なら世界中の食材を食べています。
まさに世界中の阿弥陀なるいのちを頂いて、私の身体、私のいのちと成しているわけでしょう。
大いなるいのちがあなたと成り、私と成り、木や花やちょうや鳥やけものやに獣に成っていることが真実なのです。
ところが、現代人はその真実を見失って、「誰の世話にもならない」「私は孤独だ「誰も私を見てくれない」とか、
要するに自分の殻に閉じこもって、自分を猫かわいがりし、そして、他者を踏みつけてでも儲けよう、
成功しようとあくせくし、あげくのはては、他者を、自分をも傷つけ、まさに、いのちを殺してしまっているのです。