瑞興寺

<真宗大谷派 瑞興寺>(ずいこうじ)
住所:大阪市平野区平野市町3-4-17
編集:瑞興寺住職 清 史彦(法名 釋 秀顕)

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「遠くへ行きたい」第1回―石見

※各写真をクリックすると説明付きの拡大画面になります。

久しぶりの遠出

2020年7月、新型コロナパンデミックに留意してしばらく遠くへ出かけていなかったが、半年ぶりに島根県大田市(おおだし)仁摩町(にまちょう)まで出かけた。日本海沿いの小さな漁村、まさに田舎である。

出かけた訳は、住職の高校ラグビー部の先輩で、今は瑞興寺の門徒になって下さっているKさんの連れ合いさんの実家の、古いお佛壇のお移徙(おわたまし・一般には魂抜き)を頼まれたのだ。

「遠いのに、大変やなぁ!」と思われる方も多いだろうが、私にすれば、「親しくさせて貰っている方の頼みだし、ドライブは苦にならない。翌日は、かねてから訪れてみたかった石見銀山へ足を伸ばそう」という目論見だった。

お寺での法事を済ませて、7月30日 昼12時に喜連瓜破から阪神高速にのった。車は中国道、米子道と進む。梅雨明けで晴れてはいるのだが、時折り名残の激しい雨が降る中を2時間20分走り、中国山地のど真ん中、蒜山(ひるぜん)高原SAで30分の昼食休憩。さらに国道を走って17時に現地に着いた。

島根県大田市仁摩町

向西寺 まだ日は高い。着いて早々、先ずは在所のお寺を廻ってのリサーチを行う。浄土宗の立派なお寺、西本願寺が2ヶ寺、連れ合いさんが通われた保育園をなさっている真言宗のお寺、都合4ヶ寺を巡った。さすがは「石見門徒」の本場、お東のお寺は無い。

お家に戻り落ち着いたところで、佛壇のお移徙法要を勤める。連れ合いさんの記憶では「昔は浄土宗のお寺のご縁があった」との事だが、お佛壇のお飾りを観ると、この在所の歴史があるのか、お飾りは浄土宗とお西が混じったようなスタイルだった。18時半からお勤め、30分程で終わり、ご本尊、佛具などをお下げして、佛壇を「箱」だけにして法要を終えた。さらに、不要と言われる立派な衝立や座布団なども頂戴して車に積んだ。これらは瑞興寺で使わせて頂こう。

夕食のごちそう夜は、ここに泊めてもらう。薪で沸かしたお風呂をつかい、その日の朝、先輩が前の海で釣った魚の夕食をよばれた。メバルの刺身、メジナの煮付け、ガシラの唐揚げ。その朝その場で釣った魚を頂くのは、缶ビールで酔っ払いつつ、とてもリッチな気分だった。

7月31日朝、在所を散歩する。海岸には「スサノオのミコトが朝鮮と出雲を渡る時に立ち寄った」という神話が記された看板があった。神代の時代が偲ばれる。出雲は古代には、朝鮮と海のハイウェイで繋がっていた、大陸の影響の深い往時の先進地域なのだ。たくさんの青銅器が出土した荒神山遺跡も出雲にある。

温泉津(ゆのつ)の妙好人(みょうこうにん)・石見の才市(さいち)

温泉津のゲート 朝食をよばれて先輩宅を後にする。先ず温泉津に向かう。その昔石見銀山景気の頃、賑わった鄙びた温泉である。情緒たっぷりな温泉街。


と、ここで予想していなかった出逢いがあった。それは、妙好人の浅原才市(1850~1932)の家が湯泉津にあった事だ。

才市の家・説明版 才市の家 石見の才市という呼び名はよく知っていたが、ここ湯泉津の方とは知らなかったのだ。妙好人(みょうこうにん)とは、浄土真宗の在俗の篤信者(とくしんしゃ)の事だが、才市さんは「くちあい」と呼ばれる念佛の信心を詠んだ多くの詩で知られる方である。

妙好人を最初に取り上げた知識人は、禅の研究者として有名な鈴木大拙(すずき・だいせつ)(1870~1966)で、「日本的霊性」として世界的に紹介されたのだ。妙好人の語源は、善導(中国浄土教の僧・613~681)の観無量寿経の注釈書である『観経疏(かんぎょうしょ)』において、「念佛者は、分陀利華(ふんだりけ)(蓮の花で最も高貴な白蓮華)のような者。人中の妙好人、上上人(じょうじょうにん)、希有人(けうにん)、最勝人(さいしょうにん)である」と賞賛していることによる。

1753年に石見国で編纂された『新聞妙好人伝(しんもんみょうこうにんでん)』で「妙好人」の呼び名が初めて用いられ、以後、江戸期から明治初期にかけて何篇かの『妙好人伝』が発行され、言葉として定着した。現代で妙好人を最初に取り上げたのは、鈴木大拙の著書『日本的霊性』(1944)で、その後、思想家の柳宗悦が『妙好人 因幡(いなば)の源左(げんざ)』を発表し、一般に広く知られるようになった。また小説家の司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』「因幡・伯耆(ほうき)のみち」で妙好人に触れ、「日常の瑣末(さまつ)のことがらに佛教的な悟りの境地を見出された」と述べている。

妙好人とされる主な人物は、赤尾の道宗(どうしゅう)(?~1516年・越中国五箇山赤尾谷)、因幡の源左(足利喜三郎・1842~1930)、石見の才市(浅原才市・1851~1932)、有福(ありふく)の善太郎(1782~1856・島根県浜田市下有福町)、讃岐の庄松(1799~1871年)、六連島(むつれじま)のお軽(かる)(1801~1857・下関市六連島)が挙げられる。

石見の才市の言葉(くちあい)

才市の銅像 今般、湯泉津で出逢ったのは、石見の才市だが、ここで彼の念佛の信心を詠んだ詩「くちあい」を観てみよう。

「風邪をひけば せきがでる
才市が ご法義の風邪をひいた
念佛のせきが でる でる」


さあどうだろうか。「風邪を引いたら咳が出る」。当たり前の事だ。それを彼は「当たり前のそれもこれも阿彌陀(永遠無限の大いなる働き)の中に在る」、「阿彌陀様の手の内に在る」と受け止めておられるのだ。

「世界虚空が みなほとけ わしもその中 なむあみだぶつ
わしほど 幸せな者はない 人間に 生まれさせてもろて
また極楽に 生まれさせてもろて 南無阿彌陀佛  なむあみだぶ」


「人間に生まれた事が幸せ」とは、なかなか我々は思えない。そんな事は当然な事として、目先の出来事に一喜一憂し、思い通りにならない物事に思い煩っている。

しかしそこで立ち止まってよくよく考えてみればどうだろうか。「私」が生まれるには父母の縁があり、その父母にも父母があり、その父母にも父母があり、どこまでもさかのぼる。その無数の人々のどなたか一人でも居なかったら「私」は居ない。さらにそれら全てを支え包む大地が虚空が在る。そう気づいてみれば、今ここに「私」が在る事こそが、「当然」としている事が、まさに「不思議の出来事」なのではないか。

いなかのひとびと

親鸞聖人の和讃にこんなものがある。

善し悪しの文字をも知らぬ人はみな 誠の心なりけるを
善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり


親鸞は、都(みやこ)の偉そうな人たちではなく、文字も知らぬ「いなかのひとびと」を信頼された。彼、彼女らは、まさに妙好人だ。彼らがどんな人たちかをよく表す言葉がある。

「天皇さまも、総理大臣も、みんなうらと同じ凡夫じゃわいの。一緒にお念佛申させてもらおまいか」
「子どもはみいんなお預かりもの、如来さまの子や。我のものと思うたらあかんど」


果てしなく広い大きな或るモノに気づいた人は、言葉や説明ではなく、物事の本質を感得し、「絶対」に触れているがゆえに、この娑婆世間を相対化し客観的に観ることが出来るのだと、私は思う。 

『日本的霊性』

鈴木大拙は、「妙好人」を世に知らしめた著書、1944年の『日本的霊性』に於いて、軍部が宣揚する日本精神に対抗して日本的霊性を唱えた。大拙は、人間の精神の根底には霊性(宗教意識)があると主張し、日本人の真の宗教意識は、鎌倉時代に禅と浄土系思想によって初めて明白に顕われ現在に及ぶと述べ、それを生活として表現しているのが、妙好人と呼ばれる庶民の在り様だと述べた。

鈴木大拙 鈴木大拙(だいせつ)(1870~1966 本名・鈴木貞太郎[ていたろう])
哲学者・梅原猛曰く「近代日本最大の佛教学者」。著書約100冊の内23冊が英文。日本の佛教文化を海外に広く知らしめた。1949年に文化勲章。
生まれは金沢市で旧加賀藩藩医の四男。哲学者・西田幾多郎、国文学者・藤岡作太郎とは、第四高校の同窓であり、「加賀の三太郎」と称された。また、旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。1963年にノーベル平和賞の候補に挙がった。

大谷派との関わり

大拙は禅宗の研究者だが、真宗王国である金沢の出身でもあり、浄土真宗とのご縁も深い。

1897~1909年に米国で佛教書籍の出版に関わり、帰国後1921年に大谷大学教授に就任して、大学内に東方仏教徒協会を設立した。大戦後、1950年再度米国へ赴き、1952年~1957年、コロンビア大学の客員教授として佛教思想の講義を行い、米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。欧米の多くの大学で講義し、哲学者のユングやハイデッガーとも交流が深かった。このような戦勝国と敗戦国とをつなぐ活動が、ノーベル平和賞の候補に挙げられた理由でもある。

鈴木大拙については、さらにもう少し述べてみたい。というのは、私(住職)は今から5年前、2015年に、アメリカのニューヨーク(以下NY)を訪れた事があり、その際に、大拙の遺業の一端に触れた事があるのだ。振り返ってみる。

ニューヨークの佛教

タイムズスクエア NYは、ご存じアメリカ合衆(州)国(以下USA)の最大の都市である。また欧州からの移民が最初に開拓したのが、今のNYのマンハッタン島(ちなみに、2002年のハリウッド映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』で描かれている)であり、今も世界中から移民が集まり、人種のるつぼとなっているUSAを象徴する大都会である。

そして、NYの街中では、白人黒人があまり目立たない、東洋系ラテン系など雑多な人種が入り交じり、同じ大都会でもシカゴなどとは全く違い、その意味でも世界最先端の大都会である。が同時にそれが、トランプ大統領に象徴される白人の危機感になっているのは、誠に皮肉な事でもある。

コロンビア大学図書館そのNYに佛教が根付いている事を、訪れた時に知ったのだが、それが、鈴木大拙の残された業績だったのだ。彼は禅宗の研究者で、僧侶の資格も持つ方だが、真宗王国・金沢生まれで、真宗にも御縁が深く、大谷大の教授をされ、親鸞の主著『教行信証』の英訳も遺されている。その大拙師がNYのコロンビア大学を始め、全米のいろんな大学で9年間に渡って佛教を講義されていたのだ。ちなみに、コロンビア大学はUSAでも最高の伝統校の一つで、コロンビアはアメリカ大陸を「発見」したコロンブスの名前を由来とする。だからこそ、NYで、佛教というと「禅宗」なんだけれど、禅で佛教に触れた方が、深まってくると、そこから親鸞に入ってくる方々がおられるそうなのだ。

禅宗と浄土真宗

考えてみると、禅宗から浄土真宗への道筋は頷ける。なぜなら、禅を極めていくと、その理想の姿は、「清僧」すなわち「肉食妻帯」をしない僧侶になる。しかし自分の日々の姿を見てみれば、当然の如く、肉食妻帯をしているのだから、矛盾を感じる事になる。そこで、誰かいないのかと探してみると、「親鸞」に行き着く事になるというのだ。

吉水教団この点は、その昔、親鸞の師である法然が京(今の京都・円山公園の山側)で主宰していた吉水教団に加わっていた、元関白太政大臣の九条兼実(くじょう・かねざね)の思いと似ている。兼実は、「どんな者でも南無阿彌陀佛で救われる」と説く師の法然に対して、「誰でもと先生は仰るけれど、先生自身は清僧の生活をされているではないか。それに対して、自分自身は肉食妻帯はおろか、人を殺してもいる。そんな私が本当に救われるのか。もしそうなら、誰かお弟子さんを結婚させて、どんな者でも救われる事を証明してほしい」と食い下がったのだ。それに応えて、法然が弟子の親鸞に結婚を勧めたのだという物語が残っている。

そういえば、以前、ある方から、「禅の教えを娑婆(一般世間)で実践すると浄土真宗になる」と聞いたことがあるが、どうだろうか。

紐育禅堂(ニューヨークぜんどう)―正法寺(しょうぼうじ)

正法寺の看板 紐育禅堂 その際、大拙がかって講義を行ったコロンビア大学や1965年に禅僧・嶋野榮道がNY下町のハーレムに開いた『紐育禅堂-正法寺』も訪問した。雑踏の街中の4階建てのビルの『紐育禅堂』の看板が眩しかった。

瞑想する男性作務衣の白人男性が瞑想しておられた。

紐育禅堂の佛像NYは貧富の差の大きな街だが、大金持ちが沢山いて本物が判る眼を持ち、大切な公的な事に寄付をする文化もある。『自由の女神』のお膝元NY。本当の自由を目指せば、親鸞に行き着くと、僕はその時感じたのだ。

石見銀山

温泉津の薬師湯さて、島根の旅に戻ろう。温泉津のレトロな温泉に入り、熱いお風呂を堪能した後、 石見銀山に向かった。日本はその昔、西洋からジパング・黄金の国と呼ばれていた。イタリア人の探検家マルコ・ポーロ(1254~1324)の『東方見聞録』には「ジパングは、中国の東の海上1500マイルに位置する独立した島国で、莫大な金銀を産出し、王の宮殿は金でできており~」といった記述があるようだ。

街並み 間歩 そのジパングを支えた一つが石見銀山で、1526年に発見され江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山である。その頃には、日本は世界の銀の約1/3を産出していたようだ。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱されたが1943年に閉山した。その後は、2007年に世界遺産に登録され、近年では、採掘のために掘られた「間歩(まぶ)」と呼ばれる坑道が公開され、レトロな街並みと相まって観光地として人気がある。僕もかねてから訪れてみたかった所で、今回実現したのだ。

世界遺産登録(2007年)

訪問して、またいろんな事を学んだ。

狭い坑道 2007年にに世界遺産に登録された根拠が、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという環境に配慮した生産方式」が「21世紀が必要としている環境への配慮が既に行われていた」と評価されたからだそうだが、何か皮肉な感じがする。外国の鉱山は「露天掘り」といって山を崩して掘っていく。大規模な自然破壊をしつつ採掘するので、それと比べて評価されたのだろうが、当時の日本は何も自然に配慮してそうしたのではなく、鉱脈が薄いからそうせざるを得なかったわけで、人ひとりがかろうじて通れるような細い穴で採掘するという過酷な重労働で、一日4時間ほどの採掘でも、鉱夫の平均寿命は30歳くらいだったらしい。

しかし重労働ゆえに、保護施策として、鉱山病で生活ができない者に対する米や味噌の支給、鉱夫の子どもへの養育米の支給などがあり、後の社会保障制度の先駆けと言えるものもあったようだ。

積出港のもやい町並み、製錬所跡、間歩、銀を運んだ街道、積出港など、往時を偲ぶ多くのものを後に帰路についた。【終】

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