2022年 年頭の挨拶
無 量 寿(むりょうじゅ)
住職卒業の大谷専修学院の元院長、信国淳(のぶくに・あつし)師の言葉に、
『汝、無量寿に帰れ
無量寿に帰って
無量寿を生きよ』
というものがある。「無量寿とは何のこと?」とも思うが、意味以前に何か勢いを感ずる言葉である。
2011年厳修の『宗祖親鸞聖人750回御遠忌』のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」と繋がる言葉でもある。
このテーマも最初は、「これは日本語ではない」と散々な評価だったが、馴染んでくると「考えさせられる言葉だなぁ」となってきた。
ふつうは「いのち」と言うと「私のいのち」と思いがちだが、ここのいのち」は、そうではなく、「個々のいのち」を包む「大いなるいのち」を指している。
「それって何?」 具体的に観てみよう。私が生まれるには必ず父母の縁がある。その父母にも父母が、その父母にも父母が。どこまでも遡る。
その無数の方々のどの一人がおられなくても、今の私は無い。さらに、生まれた後はどうか。
人間、10日も食べなければ、誰もが死んでしまう。まさに「食べる」とは、「いのちを頂いている」コト。今の日本人なら、
世界中のいのちを我がいのちとして頂いている。まさに個々バラバラな唯一の「私のいのち」の共なる大いなる基盤だ。
そのように縦にも横にも無量に連なる、いのちの繋がりを、インドでは「アミダ」と呼ぶのだ。
その厳粛な事実を、すっかり忘れている普段の私がいる。そこに立ち還ろう。あらゆるモノゴトの還る処である。
阿彌陀なるいのち(無量寿)を信頼し、そこに安んじて、今此処に在る私に立ち、厄介で大変な現実の日々の中で、諦めずに着実に歩もうではないか。
今年も瑞興寺を、どうぞよろしくお願い申し上げます。