和国の教主 聖徳王 (2)

〜科学的調査の限界と生きた太子像〜

 一人の人間が生きた跡を、いわゆる科学的資料のみによってあきらかにしうると考えるのは、ちょうど鐘の音というものを、鐘の構造・成分・鐘にあたった橦木(しゅもく)の運動、それによる空気の振動などを科学的に調査分析するだけでじゅうぶんあきらかにすることができると考えるのとおなじである。たしかにそのような科学的資料は、鐘の音というものの一面を説明はしてくれる。けれども、どこまでも一面だけである。人間の生活のなかに鳴りひびく具体的な鐘の音は、そんな科学的資料のうえにのみあるものではない。村々にこだまし町にながれる鐘の音に、心の安らぎをおぼえ、あるいはもののあわれを感じた、そのひとびとの心のうえにこそ具体的な生活の事実としての鐘の音がある。それと同じように、一人の人物がこの世に生きた意義は、かえって、その人においてなにを学びなにを感じてきたかというひとびとの具体的な生活のなかにこそある。つまり、村や町にながれてゆく鐘の音のひびきのように、あるいは海原をすすむ船があとにのこす航跡のように、一人の人間がこの世に生まれ、生き、死んでいったひびき、足跡、それがその人に関する伝説というものなのであろう。
 聖徳太子について、「生まれたもうと同時によくものいいたもう」、「一度に十人の訴えをあやまたず聞きわけられ、答えられた」という伝説、さらにまた「太子は救世観音(くぜかんのん)の化身・生まれかわりだ」という伝説は、太子の存在に安らぎをみいだすことのできた多くのひとびとの、その心のよろこびのなかからうまれてきたものなのだ。そしてそれこそ、現実に日本民族の歴史のなかにかたりつがれうけつがれてきた、生きた聖徳太子像なのである。(東本願寺発行「太子讀本」より)




<住職のコメント>
 明治時代に「親鸞と呼ばれる人は実在していなかった」という説がいわゆる歴史学者の間にあったそうだ。
 何故かといえば、親鸞の事を記した書物とか直筆の書などが無かったからだそうだ。それがその後、西本願寺の蔵から親鸞さんの妻である恵信尼の手紙が発見されて、「やっぱり実在した人なんだ」となったのだという。それほど親鸞という方は「目立たなく生きた方なんだなあ」と感心すると同時に、近代以降のいわゆる『学問』のオカシサを強く感じる。だって親鸞さんの教えを生きる道標ににしている何百万人という人が、現実にいる事より、一枚の紙キレの方を信頼すると言うのだから。
 「頭」とか「心」には、そんな「落とし穴」があるのではないか。「〜しなければならない」とか「安全であるはずだ」とか「計算ではこうなっている」とか言葉を並べて、現実を見ようとしない。それに対し親鸞さんは「身」の大切さをやかましく言われる。「身体感覚」とでも言おうか、理屈はどうであれ、嫌なものは嫌。恐いものは恐い。いのちは本来いのちを傷つけたくはないのだ。仏の第一の教え「殺すな」はそんないのちの叫びである。

―――以上 『顛倒』03年12月号 No.240より―――

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