歎異抄(11)

■第七章■ ・・・
〜念仏者は無碍の一道なり〜

【第七章】
念仏者は、無碍の一道なり。
そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

 【住職による現代語訳】
南無阿弥陀仏が自分のものとなった、念仏者は、なにものにも妨げられない、唯ひとすじの道を歩むものであります。
その理由は何故かといえば、信心を行ずる人に対しては、仏法を守護する、天の神、地の神も、敬って頭を垂れ、魔界に居て仏法の妨げをなす悪魔も、仏法にあだなす、どこまでも人間の力に固執する外道の教えも、念仏の行者の邪魔をすることなどできないからです。 
 魔界外道の粉砕のための行動の結果、人間の常識(外道)によって、罪や悪と呼ばれようと、それは真実の道理から観れば、 何ら善悪ではないし、また、そのように「真実に生きよう」とする生きざまは、どのような善根、善行も及ばない、唯一絶対の善なのですから、そんな念仏者の生きざまは、まさに、無碍の一道なのです。

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<住職のコメント>
「無碍」とか、「如来と等し」といった言葉を見ると、すぐ、十五年程前、瑞興寺に来て頂いていた仲野良俊先生の言葉を思い起こす。
『無碍と聞くと、すぐ私達は、碍り(さわり)が無くなるように思ってしまうが、そうではない。碍りは在るのだが、それが碍りで無くなる。問題にま向かっていくことができるのだ。』
『如来等同(にょらいとうどう)と言うが、如来さんと同じなんておこがましい。でも、如来さんと同じ質の願いを頂くことができる。如来の、真実の方向性を持つことができるということなんだ』と。
 今も、ずっと心の底に留まっている声だ。


―――以上『顛倒』00年3月号 No.195より―――


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