歎異抄(14)

■第九章■その2 ・・・

〜死なんずるやらんとこころぼそく
        おぼゆることも、煩悩の所為なり〜

【第九章】その2
「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。」


 【住職による現代語訳】

 本来は、念仏を申して喜ぶべきこころを抑えて、喜べないのは、煩悩(いかり、はらだち、そねみ、ねたみ心)のしわざです。
しかるに、(阿弥陀)仏はかねてから見通されて「(人間は)煩悩の具足の凡夫 (煩悩を具えたおろかものである)」と仰っているのですから、阿弥陀仏が、迷える人々を慈しみ悲しんで救おうと願って起された悲願は、そのような煩悩具足の私たちのためなのだと分かって、いよいよ頼もしく思われます。 
一方、阿弥陀仏の世界、浄土に急いで参りたいという心がなく、すこし疲れや、病気なので体調が悪くなると、このまま死んでしまうのではと、心細く思ってしまうのも、煩悩のしわざなのです。


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<住職のコメント>
 この部分を『劣等生、萬歳!』と一言で表現した人がおられる。
「なるほど」と思う。他からの評価にとらわれ、できるできない、善し悪しの枠組みの中で閉塞している私たちを解き放ち、本当に大切な在り様は何かを考えさせてくれる。大安心、信頼である。


―――以上『顛倒』00年6月号 No.198より―――


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