歎異抄(21)

■第十二章■その3 ・・・
〜諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、
智者遠離すべき〜

【第十二章】その3
かつは、「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離(ちしゃおんり)すべき」よしの証文そうろうにこそ。
故聖人のおおせには、「この法を信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまいたることなれば、われはすでに信じたてまつる。
またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられそうろう。
しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。
あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。
かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。
仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことをもうすなり」とこそそうらいしか。

【住職による現代語訳】

 さらに、「言い争うところには、諸々の煩悩がおこります。智慧あるものは遠ざかるべきです」という親鸞聖人の証文もあります。今はなき親鸞さまのおおせには、
「この仏法を信じる人もあれば、謗る人もあるのが当然ですと、お釈迦様(仏)は説いて下さっていますので、私は既に信じ申し上げています。また、謗る人があるからこそ、仏のお説きになることが真実であると知られるのです。だから、往生(おうじょう=本当の生を生きて往くこと)はいよいよ定まっていると思うべきなのです。もし、ひょっとして、誰も謗る人がいなかったならば、どれほど信じる人があろうとも、どうして謗る人がいないのだろうかと、疑問に思われることでしょう。しかしまた、こう言ったからといって、必ず人に謗られるべきだと言うのではありません。仏はかねて、信謗ともにあることが当然だという道理をお示しなさって、私たちの疑いが無いように、説いておかれたことを申しているのです」と、おっしゃいました。


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<住職のコメント>

「浄土真宗は、悪人正機だから、エエカッコせんとケンカもして、自分自身のどす黒い所もさらけ出したらいい」という意見もある。
が、つまらない言葉のやり取りなら、止めた方がいいだろう。
煩悩はかき立てられ、ふくれ上がるものだから、必要以上に燃え上がってしまう。
冷静に本当のケンカをすることが大切だ。


―――以上『顛倒』01年2月号 No.206より―――


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