歎異抄(26)

■第十三章■その4 ・・・
〜賢善精進の相をほかにしめして、
うちには虚仮をいだけるものか〜

【第十三章】その4
また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、 野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」 と。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことし他らんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。

本場の北京ダック


【住職による現代語訳】

「海や川で、網を引き、釣りをして生活をする者や、野や山で獣を狩り、鳥を捕って、いのちをつないで(仏の、いのちを殺してはならないという教えを破っているからと卑しめられて)いる人々も、商い(という、汚れたお金を扱い、人をたぶらかして利益を得ていると、蔑まされていること)をしたり、田や畠を耕して(下層の民と差別されて)日々を送る人も、みな同じ(等しく救われるべき存在)なのである」「しかるべき状況次第では、人間はどのような行いもするものだ(から、格好をつけても意味がない)と、親鸞聖人は仰っているのに、この頃は、信心家ぶって、善き者だけが念仏申すように思ったり、あるいは、念仏の道場に貼り紙をして、「何々のことをした者は、道場へ入ってはならない」などと言うことは、ひとえに賢善精進(仏法に真面目に取り組んで、賢明にして善行に励む姿)を外に示して、その実、内は虚仮(うそ、いつわり)を抱いていることなのです。



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<住職のコメント>
親鸞の浄土真宗の真髄をよく表している言葉である。
現実に踏み除(の)けられてきた人々に勇気を与え、世間の呪縛から解き放つ。
宗教が観念だなんてとんでもない。
いつもいつも自分の思いに観念に閉じこもろうとする私たち人間に、
世界を観せ、自分自身のあるがままの姿を観せる。
それが真実の教えである。


―――以上『顛倒』01年7月号 No.211より―――


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