歎異抄(28)

■第十四章■その1 ・・・
〜一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬ〜

【第十四章】その1
 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。
この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。
これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。
いまだわれらが信ずるところにおよばず。
そのゆえは、弥陀の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚のくらいにおさめしめたまいて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。

 

 

【住職による現代語訳】
「ひと声の念仏が八十億劫というきわめて長い間迷わねばならないほどの重い罪さえ滅罪してくださることを信じなさい」という教えがありますが、この教えは、十悪五逆(注)の罪人であって、日頃は念仏などしない人でも、この世の命の終わらんとする際に、初めて師の教えに従って、ひと声念仏申せば八十億劫の罪を滅し、十声念仏申せば、八十億劫の十倍の罪を滅して往生できるという教えです。これは、十悪五逆という罪の軽い重いを知らせるために、一念十念と言っているのでしょうが、どちらにしても、罪を滅するという利益を問題にしている教えであって、私たちが信ずべき教えではありません。
 何故なら、元々、阿弥陀仏の光明に照らされているからこそ、私たちは自分の中にひとたび阿弥陀の本願に帰依する心が発起する時に、ゆるぎなきまことの信心を頂くことができるのです。既に必ず仏と成るべき身と決定して下さっているのですから、自らを立てて生きてき生が終わる時、諸々の煩悩悪障を転じて、生も無く滅も無い悟りの世界に安住することを頂くのです。

注:十悪・・・殺す、盗む、邪淫、うそをつく、へつらう、悪口、二枚舌、貪り、怒り、愚痴
  五逆・・・父を殺す、母を殺す、仏弟子を殺す、仏身より血を出す、僧伽を破る、



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<住職のコメント>

「オウムの麻原でも念仏したら浄土へ往ける」という問いや、
「テロでも殉教であれば、天国へ行ける」という「教え」がある。
「どちらも違う」と唯円はこの14章で言われる。
「そんなふうに、浄土や天国に条件をつけていることが、どだいまちがっている」と、
「何かをしたり、何かをしなかったら、何ものかになれると、
自分の力で何とかなると思っている。「その根性そのものが違うのだ」と。


―――以上『顛倒』01年10月号 No.214より―――


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