歎異抄(33)

■第十五章■その3 ・・・
〜生に死に離れる〜

【第十五章】その3
『和讃』にいわく「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護してながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、 ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。


<住職のコメント>
 「和讃」(親鸞聖人が作られた信心の喜びや味わいを説いた一種の詩歌)に、「金剛石のようにゆるぎないきまことの心、人間の上に自覚となった仏の心、が定まった時を待って、阿弥陀如来の慈悲の心、智慧の光に摂められ、護られて、人間の生き死にの迷いの世界から永遠に離れていく道が与えられるのです。」と仰せになっておられる意味は次のような意味です。
 本当に信心が定まる時に、阿弥陀如来は、私たち人間を、ひとたび摂取して捨てられないので、私たちは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、という六道を、ぐるぐる輪が回るように、経めぐって終らない、迷いの在り方から抜ける道を頂けるのです。そして、だからこそ「生き死にを離れつ」と仰るのです。このように「知る」ことを、自力聖道門の人々は「悟る」と言い紛らすのでしょうか、あわれなことです。
 「浄土真宗に於いては、今、此処において、阿弥陀の根本の願いを信心、そして、約束された阿弥陀の浄土において悟りを開くのだと、教わっています」と、なき親鸞聖人はおおせになっております。


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【住職による現代語訳】

  「彼の土にて悟りを開く」。浄土真宗の教えの微妙な表現である。誤解されて「死んだら極楽」と、現実に対する眼をくもらせてしまうこともままある。でもそこで親鸞聖人の生き様を見なければならない。
  真実を顕らかにしようと意欲するあのすごい学習。膨大な著作。数え切れない程のお手紙。現実をあきらめた人の姿では決してない。
  親鸞さんは『今、悟ったようなフリをして、終ってしまってはならない。座りこんでしまってはならない』と仰っているのだ。『迷いの生を、迷いと深く知って生き切るのだ』と。そう気付いた時に、私を私として生きる、本当の生活が。歩みが始まるのだ。

 

―――以上『顛倒』02年4月号 No.220より―――


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