歎異抄41
後序 ・・・その2
如来よりたまわりたる信心
【後序】その2
    ただひとつなり」と御返答ありけれども、なお、「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御まえにて、自他の是非をさだむべきにて、この子細をもうしあげければ、法然聖人のおおせには、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」とおおせそうらいしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともそうろうらんとおぼえそうろう。


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【住職による現代語訳】
「浄土往生の信心は唯一つです。」と親鸞さまは返答されましたが、なお「どのような根拠でそう言うのか」との疑いの非難がお仲間からありましたので、詮じ詰めれば法然上人の御前に於いて、自分と他者のどちらが正しくてどちらが誤りか決めましょうということで、論争の内容を法然さまに、事細かく申し上げましたところ、法然さまはの仰せには、 「源空(法然)の信心も阿弥陀如来より賜った信心です。そして善信房(親鸞)の信心も阿弥陀如来より賜った信心です。ですから浄土往生の信心は唯一つです。別の信心を得ておられる人は、源空が参ろうとするところの浄土へは、まさか参りなさらない無いでしょうね」と言われたそうですが、法然上人の御在世の当時の、一向に専ら念仏を修する人々の中にも、親鸞さまの御信心と同一でない、自分なりの信心の人もおられたのだなぁと分かります。


<住職のコメント>
  先日、ある若い女性から「如来なんてニョロイみたいで語感が悪いし、少しでも知っている人でも、せいぜいが仏像を連想するくらいでしょう。何かよい言い方はないんですか」と問われて、それこそ「ギャフン!」明治の大先輩、清沢満之(まんし)は「絶対無限の妙用(みょうゆう・はたらき)」と言うんだけど、より分からんような気もする。「意味の分からん言葉が、分かろうとする出発をうながす」とか僕はモゴモゴ応えたが。坊さんの仕事だよね。

―――以上『顛倒』02年12月号 No.228より―――

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