歎異抄(6)

■第三章■ ・・・その2・・・
〜善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや〜


【第三章】 その2
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあられみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おうせそうらいき。

 【住職による現代語訳】

 心を煩わし、身をなやますことを具えた私達には、どのような修行によっても、生にとらわれ死を恐れる、流転の生活を離れることができないことを、憐れみなさって、「本願」(ほんがん)を、起こされた阿弥陀仏の本当に意(こころ)は、そのような私たち、煩悩具足の悪人の成仏のためなのですから、自分の力などたのみようもなくがなく、阿弥陀仏の本願の働きの力を(他力)を、おお憑み申し上げる悪人こそ、もっとも、まことの国に往き、産まれて仏となるたねであります。
だからこそ、『善人でさえ往生するのだから、まして悪人は当然だ。』と、おっしゃったのです。

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<住職のコメント>
この「悪人こそ救われる」論は、さまざまな論議の種になっている。
「悪いことをしたほうが救われるのだ。」といった『豊田商事事件』などもあった。
また別に『悪人』とは、差別されている人達のことだという説得力のある論考もある。
この親鸞さんの『善悪』は、例によって、謎の言葉で、ひとつに断定できるものではないようだ。
が、しかし、どうも世間でいう善悪とは違うことはハッキリしている。
差別を受けたことも含め、本当に苦労してきた人の中に、素晴らしく心の広い、優しい人が、時におられて、そんな方にお会いした際、ふと、この『悪人正機』の言葉が胸に浮かぶのだ。


―――以上『顛倒』99年9月号 No.189より―――

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