歎異抄(7)

■第四章■ ・・・
〜慈悲に聖道・浄土のかわりめあり〜


【第四章】 
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々。

 【住職による現代語訳】

他者を慈しむ悲しむ在り方に、聖道と浄土の違いがあります。
聖道の慈悲とは、あくまでも人間の立場として自分の力で努力して、他者を憐れみ、悲しみ、そだてようという在り方です。
が、それは、思うように助け遂げることは、きわめて難しいのです。
それに対し、浄土の慈悲とは、南無阿弥陀仏という、大いなる慈悲の心でもって、本質的に思うがごとく、あらゆる生きとし生けるものを救済することなのです。
 この迷いの世間を前提として、いかに、いとおしく、可愛そうと思っても、本当に助けることなどできないのは、分かっているのですから、そのような慈悲は一貫したものではありません。
 だからこそ、南無阿弥陀仏の教えに生きることだけが、徹底した、大慈悲心なのです。
 

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  <住職のコメント>
 
ボランティアといったことに対し、訳知り顔で「あれは聖道の慈悲(無意味)だ」といった意見もあるようだが、それは間違っている。
この章で、親鸞は、そういう『人助け』をする人間の在り方を問うているのである。
助けてやるという憐れみや、思いあがりになっていないか。
そのことが本当に他者を支えることになっているのか。
そのことが自分を犠牲にしていたらアカンぞ。
他者のそして自分の心を見ようとしているか。
それこそありとあらゆるいのちの本来に帰る方向に立つことだけが、他者をそして自分を慈しみ悲しむことであろう。
それは例えば、単なる『地球を救え』ではないはずだ。


―――以上『顛倒』99年10月号 No.190より―――

 

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