歎異抄(8)

■第五章■ ・・・
〜一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり。〜

【第五章】
  親鸞は父母の孝養のためにとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわずそのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦ににしずめりとも、神通力をもって、まず有縁を度すべきなりと云々。一なり。

インドにて撮影  【住職による現代語訳】

 私、親鸞は亡き父母の追善供養のためには、一度だって念仏申したことなど、いまだかつて有りません。
なぜなら、一切の生きとし生けるものは、みな全て、いくたびも生まれかわる永い時を貫いての、父母兄弟姉妹だからです。
誰もが、生まれ変わって、目覚めた者になって、全てを助けるべきなのです。
自分の力で励む善ならば、その念仏を振り向けて父母を助けもしましょうが、そんな力は、私には有りません。ただ、わが身、心、力をたのむ在り方を捨てて、即ち浄土の、永遠無限という果てし無く広大な悟りを開いたならば、人間の迷いの生において、どのような行い、苦悩に沈んでいる者であろうとも、自由自在に生きとし生けるものを救済する、真実の法のはたらきをもって、まず、身近な縁あるものを救うべきなのです。

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<住職のコメント>
日本中の坊さんがビックリするようなことが語られている。
「こんなことになったら、オマンマの食いあげだ」と・・。
日本の"仏教”は先祖供養、追善供養で成り立っているとよく言われる。そういう意味では、親鸞の仏教は全く違う。前者はあくまで自分のご利益を願う立場であり、後者はそれを願う自分自身は何者かを問う。問うてみれば、確かに、あらゆるいのちは、生まれ変わり、死に変わり、つながり合っていること。そしてその総体が私であり、私が総体でもある。
そのようなアミダなるいのちを生きる私である。それこそが仏教なのだ。と・・・。


―――以上『顛倒』99年11月号 No.191より―――


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