歎異抄(9)

■第六章■ ・・・
〜親鸞は弟子一人ももたずそうろう〜

【第六章】その1
 
専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、
という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。 親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、 ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、 弟子にてもそうらわめ。
ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、 念仏もうしそうろうひとを、 わが弟子ともうすこと、 きわめたる荒涼のことなり。

 【住職による現代語訳】

ひとすじに本願を信じ、念仏だけを専ら修する人々の中において、「(誰それは)私の弟子である。」とか「他人の弟子だ」とかいった言い争いが、あることは、もっての他の出来事であります。
 私、親鸞は、弟子の一人のも持ったことなどありません。
その訳は、私自身のは計らいでや力量で、他人に念仏をさせているのであれば、
その人は私の弟子だということになるかもしれません。 しかし、自分の力でひとに念仏させるなどということは、できることではありません。
私の教えを受けて、念仏申してる人がいたとしても、それは私の力ではなく、ひとえに、永遠のいのち、無限の広がりである、 阿弥陀仏如来のお導きを頂いて、念仏申しておられるのです。(いわば私は、その阿弥陀仏如来の働きを取り次いでいるだけなのです。)
そのように念仏申されている人々を、「自分の弟子だ」などと言うことは、極め付きの、心がさむざむとなるほどの途方もない言い訳なのです。

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<住職のコメント>

人間は親分・子分の間柄が好きなんだなぁと思う。特に日本人はそうではないか。
最近、世間をにぎわしている「定説」の『ライフスペース』や『天声」』の『法の華』など、その典型だろう。何から何まで親分(グル)の言う事に身も心も従う子分になる。
そのことが、結構、心地よい安楽であったりするのだ。
自分自身で決断しなくてよいのだから、楽に違いない。
それは決して特殊なことではない。
それは、姿を変えて今、私がはまっていることではないか。


―――以上『顛倒』99年12月号 No.192より―――

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