歎異抄(13)

■第九章■その1 ・・・

            〜念仏もうしそうらえども、
             踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう〜

【第九章】その1
「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、 よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。」

【住職による現代語訳】

「念仏申してはいるのですが、天に踊り、地に躍り、身を歓ばし、心喜ばすほどの、躍り上がる喜びのこころが涌き立ってきません。
また、いそいで浄土にまいりたいというこころもないのはどうしたことでしょうか」と親鸞聖人におたずねしましたところ、親鸞様は、「親鸞も、同じような不審があるのだが、唯円房も同じ思いなのだね。
よくよく考えてみれば、本来、天に踊り、地のに躍るほどに、喜ぶべき、お念仏を喜べないのだからこそ、いよいよ私たちの浄土往生は決定していると思うべきなのです。」とお答え下さいました。


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<住職のコメント>
またぞろ、親鸞の謎の言葉である。
『ナムアミダ仏を喜べないからこそ、あなたの往生はハッキリしている。』と。
僕らの常識をひっくり返す言葉である。
『お念仏を喜んでいます』なんて物言いの薄っぺらさが見えてくる。
その種明かしは、来月号に続く言葉にまかせるが、
どちらにしてもとても信頼できる言葉ではないか。
迷っている僕たちに向かって、
『私も迷っているよ。そしてその迷いこそが本当の道を開くカギなのだよ』と。


―――以上『顛倒』00年5月号 No.197より―――


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