歎異抄(24)

■第十三章■その2 ・・・
〜わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。
また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし〜

 

【第十三章】その2

また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、 「さんそうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、 かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、 「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、 「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、 もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、 すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。 わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、 おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、 あしきことをばあしとおもいて、 願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを。おおせのそうらいしなり。

 

【住職による現代語訳】
ある時「唯円坊は私の言うことを信じるか」と親鸞様が言われ、「左様でございます」と応えると、 「さらば、言うことに背かぬか」 と重ねて仰ったので、 謹んで了承しましたところ、「それなら、人を千人殺してもらおうか、そうすれば往生は定まるから」 と言われました。その時、「先生の仰せではありますが、私の力では一人といえど、 殺せそうにも思われません」と申し上げたところ、 「それならばどうして、親鸞の言うことを違わないと言うのか」と。「これで分かるだろう。何事もこころの思うままになるならば、往生のために千人殺せと言えば、殺せるはずだ。しかれども、一人といえども、原因と条件が揃っていなければ害せないものなのだ。自分の心が善いから、殺さないのではない。また、害せずにおこうと思っても、百人千人を殺してしまうことのもあるのだ。」と仰いました。


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<住職のコメント>
     また謎の言葉である。人間の努力なんか全くの否定で
    「どうでもいい」となってしまいがちな言葉である。
    が、これは「『何をしでかすかわからない私』を自覚せよ」という教えである。
    例えば、私たちが「死刑は必要だ」と言うとき、
    その私この親鸞の言葉をどのように聞くのだろうか。


―――以上『顛倒』01年5月号 No.209より―――


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