■第十三章■その3 ・・・
〜くすりあればとて毒をこのむべからず〜
○【第十三章】その3 そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、 わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは かの邪執をやめんがためなり。
まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。
「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」と。
かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。
さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられそうらわじものを。
【住職による現代語訳】
その昔、間違った見解に陥った人がいて(阿弥陀仏の本願は)悪を造る者を助けようという願いなのだからと、わざと好んで悪を造って、往生の業(浄土に生まれるべき原因となる行為)とするべきだといって、様々に悪いことをしているという噂が聞えてきたときがあったが、親鸞さまのお手紙に、「薬があるからといって、毒を好んではならない」と仰っているのは、このような邪見の執着を止めようとする為です。とはいっても、悪は往生の障害であるというのではありません。
「戒律を保つことだけでしか、本願を信じることができないというのであれば、私たちは、どのようにして、迷いの生き死にの生活を離れることができようか(できはしない)」と親鸞様は仰っています。
このように浅ましい私も、本願に出会ったればこそ、この身を誇ることができ、その自分自身が大切に思えるのです。だからこそ、身に元々備わっていない悪い行いは、まさか犯すこともないでしょう。
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○<住職のコメント>
「薬あればとて毒を好むべからず」本当に明解なことばである。 私たち人間の何というか、甘えの根性、サボリ根性を否定するわけでもなく、さげすむわけでもなく、かといって許すわけでもない、この微妙なサジ加減。
慈悲深く抱きとめておいて、そこで厳しく智慧のことばを見舞う。
親鸞の人と為りが、よく伺える言葉である。
人間の善悪の枠組を越えて、私そのものに素直になることだけが必須のことなのだと。
中国のお寺にて撮影
―――以上『顛倒』01年6月号 No.210より―――
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