歎異抄(31)
■第十五章■その1 ・・・
〜即身成仏?六根清浄?〜
【第十五章】その1
煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
この条、もってのほかのことにそうろう。
即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。
これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、
きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、
なおもて順次生のさとりをいのる。


【住職による現代語訳】
「煩悩の具わったこの身のままで、すでに悟りを開く」ということは、あり得ないことです。
 この身のまま悟りを得て仏になる「即身成仏」は、人間には公開されていない、真言宗の秘密の根本のこころですが、身に印を結び、口に真言を唱え、心に本尊を観ずる、三密の行が如来に加持されて得るところの境地と言われています。
 また、目耳鼻舌身意の六根を清浄に調えて自由自在の働きをしようとする「六根清浄」の行は、唯一無二の教えである法華経の説くところで、心身を安楽ならしめる、身口意の善行と、慈悲の行によって得られる悟りです。
  が、これらはみな、人間には行じ難い、上根の修行であり、妄念を捨て心をこらして真理を見極めようとする在り方です。
 一方、今生ではなく、次の世で悟りを開こうとすることが、阿弥陀仏の本願他力を馮んで救われる、浄土の教えの根本であり、これこそが信心の定まる道であるのです。これはまた、誰にでも成しうる、下根の修行であり、善し悪しを分け隔てしない救済の道理です。
 もともと、今生において、煩悩や悪い障りを断ち切ることなど、極めて困難なことですから、真言や法華を行じようとする浄らかな僧侶でさえ、順番にこの世のいのちを終わって悟りを開くことを祈っているのです。


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<住職のコメント>

「歎異抄」はけっこう人気があって、いろんな方々がその味わいや解説を書いておられる。が、この十五章はその中で一番取り上げられることの少ない章のひとつである。気の効いた言葉もないし、何か難しいだけの「他宗批判」に見える。僕も今月は苦労して読んでいる。とは言っても読んでいる内に、また少しづつ見えてくることもある。真言・法華批判に見えるけれど、それだけではない。それは、人間全てに対する批判である。善きにつけ悪しきにつけ、何か自分のした事柄を積み上げて、何事かをなそう、何者かであろうとする、私たちへの厳しい批判である。


―――以上『顛倒』02年12月号 No.218より―――


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