歎異抄(32)

■第十五章■その2 ・・・
〜弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたる〜

【第十五章】その2
いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときこそ、さとりにてはそうらえ。この身をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。


【住職による現代語訳】
 戒律を身に行ない、知恵をもって物事を正しく理解する。そのどちらもできない者であっても、阿弥陀仏の他力の本願の大船に乗って、生き死にの苦海を渡り、浄土の岸に着いたならば、煩悩の黒い雲は、早く晴れ、静かな悟りの月が即やかに現れて、あらゆる世界を照らし、何ものにも遮られない光明に一切が包まれて、あらゆる生きとし生けるものに利益を与えてくださる時こそ、本当の「悟り」なのです。
 現実のこのわが身においても、悟りを開こうとする人は、お釈迦さまのように、いろいろな姿をとってこの世に現れ、三十二種のすぐれた相と、八十種のよき形をも具えて、法を説いて人々を救うのでしょう。これこそが、現在の生涯において悟りを開くということの根本なのです。


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<住職のコメント>
 「歎異抄」の著者の唯円は、徹底して自力を批判し、阿弥陀仏の本願に全てをお任せする「他力」を勧められる。ところがこの他力が難しい。
  世間には「他力本願」なんて言葉があって、自分では何もせず他人任せにすることの意味で用いられ「他力」の教えを解りにくくしてしまっている。
  それでは「他力」とは何か。親鸞聖人は聖徳太子をとても大切にされているのだが、彼はご存知のように、日本に初めて仏教を導入し、この国を仏教に依って治めようとされた、摂政太子である。「他力」に一番遠い人に見えるのではないだろうか。この辺りに親鸞さんの「他力」の秘密があるように思う。
  聖徳太子は自分の力を尽くした方であろう。でもそれは、どこかの政治家のように我田引水ではない。仏法という大きな道理に従って、現世の変革に力を尽くされたのである。
  自分勝手な、できるできないの思いではなく、道理に沿ってやるべきことをやろうとする。そこに「他力」があるのだ。ということである。


―――以上『顛倒』02年3月号 No.219より―――


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