歎異抄(37)

■第十七章■ ・・・
〜辺地の往生をとぐるひと、
ついには地獄におつべしということ〜

【第十六章】その3
 辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。経論聖教をば、いかようにみなされてそうろうやらん。信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろうを、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうなれ。


【住職による現代語訳】
「辺地(真実の世界の周辺にある仮の世界)に生まれる人は遂には地獄に落ちてしまうのだ」と言う人がいるが、こんな事は、親鸞さまの書かれた書物や薦められた書物のどこに在るというのでしょうか。
 学者ぶった人の中から言い出された事でしょうが、情けない事です。いったい、仏教の経典や聖教をどのように読んでおられるのでしょうか。
 信心の欠けた行者は、阿弥陀の本願を疑う事によって先ず辺地に生まれ、そのように仏智を疑った罪を償って後に報土(真実に相応する世界)の悟りを開くのだと、私は伺っております。その意味は本当の信心の行者が少ないからこそ、先ず仮土(仮の世界・辺地)に多くの人を勧められ、しかる後に報土に往生させようという阿弥陀仏の御心ですのに、「結局は虚しい事になる」と言うことは、阿弥陀如来に嘘偽りを言われたことにしてしまう事です。


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<住職のコメント>
 また唯円さん(歎異抄著者)の「学者批判」です。今ならさしずめ「お坊さん批判」かな。一部の新進宗教で「地獄落ちだ」と言い驚かせて入信させるやり方がありますが、当事も似たようなことがあったのかもしれません。 さすがに、最近の浄土真宗のお坊さんで『地獄落ちだ』などと言う人は少ないようだが、その替わりに、難しい言葉で言い驚かしたり、ゴマかしたりはいっぱいあります。自分は真剣に信心を語っていても全く相手には通じてない、それに気付いてさえいない。誠に悲しい有り様です。


―――以上『顛倒』02年8月号 No.224より―――


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