歎異抄(38)

■第十八章■ ・・・
〜施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。
この条、不可説なり、不可説なり。〜

【第十八章】その1
仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろうや。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてそうろうも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短方円のかたちにもあらず、青黄赤白黒のいろをもはなれなば、なにをもってか大小をさだむべきや。念仏もうすに化仏をみたてまつるということのそうろうなるこそ、「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」(大集経意)といえるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられそうろうやらん。かつはまた檀波羅蜜の行ともいいつべし


【住職による現代語訳】
 仏法の道場、寺院において「寄付の物の多い少ないに従って、大きく優れた仏に成ったり、小さくて劣った仏になったりするのだ」などと言う事は、言語道断で根拠の無い事です。
 先ず、仏のに大小の分量などあるはずがありません。なるほど、かの、心を安んじ身を養う浄らかな国阿弥陀の浄土の教え主の大いなることは説かれてはいますが、それは、仮に形として表されているお姿です。形を越えた真実のさとりを開かれて、長短方円、青黄赤白黒といった、形や色を離れられた仏を何を持って、大小と決める事ができると言うのでしょうか。
 念仏を申せば、仮に姿を表された仏に出会う事ができることを、お経には「大念には大仏をみ、小念には小仏をみる」と説かれており、こんな道理にこじつけているのでしょうか。または、菩薩の行のひとつである「布施の行」などと言っているのでしょうか。


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<住職のコメント>
 本文を一読してニヤッとしてしまった。『昔も今も変わらないんだなぁ』と。今ならさしづめ戒名料かな。私達浄土真宗には、本来無い事だけど、他宗では、戒名の長短とお布施の多少がつながっていると大問題である。それによる坊さん批判も多く聞く。でもちょっと待って欲しい。そこに出す方の問題は無いのかと。納得しないお金は出さなければいいのではないか。そこに自分の根深い欲望が常に善し悪しを立てて、善い者になろうとする自分の根性が、在るのではないか。「見返り」でなく「気持ち」を形で表現することが本来であろう。


―――以上『顛倒』02年9月号 No.225より―――


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