○<住職のコメント>
「異なるを嘆く」と名付けられた『歎異抄』のその最後の章。後は、後序を残すだけの第18章で取り上げれた課題が、この、仏法と金銭の問題であるという事は、誠に示唆に富んでいる。昔も今も変わらず私たちのつまづきはその辺りにあるのだと。
一方、金銭のことを問題にして「多くとも少なくとも変わらない」と聞くとすぐに、「それじゃあ、少なくしとこう」と思ってしまう私もいる。それもまた金銭の大小、見返りにとらわれた姿であろう。思えば、親鸞聖人は、基本的に門徒からの寄進によって生活されていた。門徒も「身命を省みず」はるばる関東から京都まで寄進を届け、聖人から教えを受けて帰っていかれた。時代が下って蓮如上人も「われは門徒に持たれり」とご門徒衆を敬っておられる。このような金銭の伴う健康な人間関係とは、どういうものなんだろうと思う。まま、私達は金銭によって関係を壊しがちだ。が、そこに「何が大切なのか」と「真実に生きよう」とする道理に沿った視点(信心)があるのかどうかが問われている。
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