歎異抄40
後序 ・・・その1
往生の信心においては
全く異なる事なし唯一つなり
【後序】その1
 右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおおかりけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおわしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のことそうらいけり。そのゆえは、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」とおおせのそうらいければ、勢観房、念仏房なんどもうす御同朋達、もってのほかにあらそいたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつにはあるべきぞ」とそうらいければ、「聖人の御智慧才覚ひろくおわしますに、一ならんともうさばこそ、ひがごとならめ。往生の信心においては、まったくことなることなし、ただひとつなり」と御返答ありけれども、


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【住職による現代語訳】
 これまで述べてきた問題は、みな信心の中身が異なっていることから生じています。今は亡き親鸞聖人のお話にも次のようなことがありました。
 親鸞さまの先生の法然上人がご在世のとき、お弟子が数多くおられましたが、同一の信心を持たれる方は少なかったのでしょう。親鸞さまがお仲間の中で、念仏の信心についての論争があったそうです。
 その内容は、親鸞さまが「私(善信)の信心も、法然さまの信心も同一です。」と仰ったときに、勢観房、念仏房などといったお仲間が、もっての他の事と反対されて「どうして法然さまの信心と善信(親鸞)の信心が一つであろうか、あるはずがない」と言われました。それに対し、親鸞さまは、「法然さまの智慧や才覚は広いですから、それらが私と同一であると言うのなら、それは間違いでしょう。が、浄土往生の信心においては、全く異なることなく、唯一です」と返答されました。


<住職のコメント>
  親鸞の浄土真宗の決定的な教えのひとつが表現されている。平等観と言うか『あらゆるいのちが水平に出会う』根拠がここにある。人はみな一人一人異なっている。それを単純に「同じだ」とか「平等だ」とか言ってしまうことは、間違っている。が、同時に、その異なるいのちがみなつながり合って、生まれ変わり、死にかわり、巡り巡る。アミダ(永遠・無限)なる『ひとついのち』を生きているのだと。

―――以上『顛倒』02年11月号 No.227より―――

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