歎異抄43
後序 ・・・その4
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
【後序】その2
・・・大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまらせてそうろうなり。聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、・・・


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【住職による現代語訳】
      ・・・・大切な証文類を少し抜き出して、箇条書きに(第一章から第十章まで)この書物に添えました。
 親鸞聖人がいつも仰っていた事ですが、
「阿弥陀仏如来が、五劫という永い永い間、人間存在の問題をことごとく思い尽くされてお誓いになった本願を、よくよく考えてみれば、それは、ひとえに親鸞一人の為に誓われた願いであります。だからこそ、たくさんの過去の行ないの積み重ねや、しがらみに縛られている身である、私自身を解放しようと、思い立って下さった、弥陀の本願の、なんと有り難い事でしょうか。」と、しみじい言われた事を、・・・・ 


<住職のコメント>
 歎異抄もいよいよ最後の「後序」と呼ばれる章に入ってきた。ここは著者、唯圓が異なるを嘆く中心の部分でひとつひとつ驚くような言葉が次々と出てくるので、ゆっくりと進まねばならない。今月の「親鸞一人がため」というのもスゴイ言葉である。アミダは、「あらゆる生きとし生けるものを摂って取って捨てない」と誓われたのに。それを「自分一人の為」と言い切るなんて、何と『自己チュー』なんと『ゴーマン』な事かと思ってしまう。でもよく考えてみよう。阿弥陀さまは「全てのいのちをすくうという誓願を成就して悟られた」とお経には書いてある。ということは、もしもこの私がすくわれていなかったら、阿弥陀さまも、その悟りを開くことができないということではないか。それが「この私のための願いだ」と言うことである。それをもうひとつ深めて、「阿弥陀仏をすくうのは私だ」とまで言った方もおられるが、何ものにも縛られない本当の私の発見、真の主体的な自律自立した存在がそこに誕生する。

―――以上『顛倒』03年3月号 No.231より―――

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