歎異抄46
後序 ・・・その7
我もひともそらごとをのみ申し合いそうろう
【後序】その7
まことに、われもひともそらごとをのみもうしあいそうろうなかに、ひとついたましきことのそうろうなり。そのゆえは、念仏もうすについて、信心のおもむきをも、たがいに問答し、ひとにもいいきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたたかいかたんがために、まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり。このむねを、よくよくおもいとき、こころえらるべきことにそうろうなり。


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【住職による現代語訳】
 誠に、我も他者も空言ばかり言い合っておられる中に、さらに一つ情けない事があります。それは、念仏も申すについて、その信心の有り方を、お互いに問答し、他者にも言い聞かせる時に、他者の口を塞ぎ、論争に闘い勝つために、全く親鸞聖人が仰っておられない事を、仰っていると言う人がおられますが、本当に浅ましい事だなぁと、私は嘆いております。皆さんも、この趣旨を、よくよく理解して心得られるべきです。


<住職のコメント>
 東京坊主バーの友人坊さんが、その経験から「ほめられたい人が多い」と言っていた。さらに「自分の話は聞いて欲しいが、他者の話は聞きたくない人が多い」そうだ。なるほどなぁと思う。僕も大阪坊主バーとか本山の議会とか、論争の多い場に身を置いていて、つくづくそう思う。「よかれ」と思って話しているものが、いつの間にか、議論でなく相手を罵倒しだし、話のできないやつだと決めつけてしまう。その勝ち負けだけが問題になってしまう。何とかしたいものだ。通じる言葉を見つけ、分かってないと思える相手と同じ土壌を捜して、同じ道具を見つける作業。違った者同志が一致点を見つけ出す努力。そうして、より高い次元で異なっているた意見が融合することを願う。浄土真宗は伝統的に「聞け」と教えられ、蓮如上人は「ものを言え言え」と言われた。その願いは、この辺りにあると思うのだ。

―――以上『顛倒』03年6月号 No.234より―――

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