歎異抄(48)
■承元の法難(念仏断圧)の記録■ ・・・その1
〜無実風聞によりて罪科に処せらるる人数事〜
【歎異抄・承元の法難(念仏断圧)の記録】その1
 後鳥羽院御宇、法然聖人他力本願念仏宗を興行す。于時、興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実風聞によりて罪科に処せらるる人数事

一 法然聖人並御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり。聖人は土佐国番田という所へ流罪、罪名藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。
 親鸞は越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。
浄円房備後国、澄西禅光房伯耆国、好覚房伊豆国、行空法本房佐渡国、幸西成覚房・善恵房二人、同遠流にさだまる。しかるに無動寺之善題大僧正、これを申しあずかると云々
  遠流之人々已上八人なりと云々


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【住職による現代語訳】
 後鳥羽院上皇の治世の時、法然聖人は「阿弥陀仏の力(他力)と、阿弥陀仏の誓い(本願)にお任せして阿弥陀仏の名を呼ぶ(念仏)事を根本(宗)とする教え」を立てて、民衆に伝えられました。
 その時、南都(奈良)の興福寺の僧たちが「法然の教えは、日本における仏教の伝統を著しく傷けている」と朝廷に訴えました。そうする内に「法然さまのお弟子の方の中には、乱暴で間違ってた行ないをした者がいる」として、うわさ話で、根拠が無いにもかかわらず、数人の方々が罪に罰せられました。
 法然聖人ならびにお弟子七人が流罪に、またお弟子四人が死罪に処せられました。法然聖人は、土佐の国の番田という所に流罪され、僧侶の身分も取り下げられて与えられた、罪人としての名は、藤井元彦で、七十六歳でした。親鸞は、越後の国へ流され、罪名は藤井善信で、三十五歳でした。浄円房は備後の国、澄西禅光房は伯耆の国、好覚房は伊豆の国、行空法本房は佐渡の国、幸西成覚房と善恵房の二人も同じく遠流に定まり、そして無動寺の善題大僧正に身柄が預けられました。以上八人が遠流です。


<住職のコメント>
 「歎異抄」を読んできて、何度も『謎のような言葉』と言ってきたが、極めつけの謎がここ。最後に『念仏弾圧』の記録が載せてあることだ。本文ではもちろん無い。付け加えたのは唯円さんなのか、蓮如さんなのか。が、どちらにしてもこの事が親鸞さんの浄土真宗の信心にとって欠かせない出来事であることは伺えるだろう。「本当の浄土真宗の信心は世間から認められない」ということなのか。後に「首を飛ぶような念仏」という言葉で、単なる仕事のセリフになってしまっている。歌を唱うかの如き、坊さんたちの『念仏』を痛烈に批判された方もおられるが。その問題提起を誰もが心に刻まなければならない。
パキスタン、ラフォール博物館
ガンダーラ仏

―――以上『顛倒』03年年8月号 No.236より―――

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