正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
「正信偈講話」by 住職 清秀顕
kouwa02 親鸞聖人の教え を一言で言うと「ただ南無阿弥陀仏佛」ですが。それだけでは意味が分かりません。何故ならこの「ナムアミダブツ」は昔のインドの言葉(サンスクリット語・梵語の音・ナーム アミターバ ブッダ)を, 伝えたものだからです。それを親鸞さまが解説して下さったのが、この正信偈、正しくは「正信念仏偈」と申します。
『顛倒』連載 第一回
仲野良俊先生の講話 瑞興寺に長くお出で頂いた仲野先生のお話しで忘れられないのが、最初の講義で言われた、 「正信偈は我が浄土真宗の真の伝統。大谷派とか本願寺とか親鸞とか知らんでも、キミョームリョーでわかる。 全国津々浦々。北海道と鹿児島、話は全然通じんでも、キミョームリョーで通じる」です。 何かすぐ、何宗とか何派とか言ってセクト化する私たちへの痛烈な、また本質的な呼びかけ、 まさに阿弥陀佛からの呼びかけです。

ナーム  アミターバ ブッダ
帰 命 無 量 寿 如 来
南 無 不 可 思 議 光

最初の二節は、南無阿弥陀佛の言い換えです。 「南無」は「信じ従う」と訳しますが、「信じる」とか言うとすぐに私たちは「イワシの頭も信心」とか言って、 「自分の根性で信ずる」と受け取りがちなのですが、そうではありません。 親鸞さまは「帰命」と訳されました。単なる「帰依」ではなく、 「命に帰る」と説かれた事に大きな意味があると私は思います。
命に帰る ですから「私の存在の根本に帰る」のです。帰ってみたらどうですか。私たちは「命の法則」に従っています。自分が気づこうが気づこまいが、好き嫌いに関わりなくです。「命の法則」とは何か。「光を求める」などと言ってもよいのですが、具体的に言うと、私が 生まれて生きる その全てが自分だけのことではない。という事実です。私がこの世に誕生した事には、必ず父母の縁があります。もちろん人間ですからいろんな事情があり、生まれてすぐに捨てられた方もあるでしょう。母の顔も知らない、父の名前も判らないという事もあります。しかし、誕生したという事は必ず父母の縁があったということです。地球上の70億人全てが、いやあらゆる生きとし生けるものが父母の縁で生まれるのです。 「イエスキリストが処女のマリア様から生まれた」やて、「ウソつくな」です。さしずめ、イエス様は世界で一番有名な私生児という事です。そのように全ての命が父母の縁で誕生します。その父母にも父母があり、その祖父母にも父母があります。どこまででもさかのぼる。そのどなたがおられなくても私は居ない。それが事実です。  親鸞さまは約800年前の方ですが、一世代を30年として計算しても、800年さかのぼると私一人が約一億人になります。当時の日本人は二千万人もいないでしょうから。私もまた親鸞さまと縁続きだということになります。そのように「アミダなる命」を背景に我々は誕生するのです。】
いただきます・ごちそうさま は本当に大切な日本の言葉ですが、我々が生きる内実を言い表しています。最近は「お金払ってるのになんで頂きますと言わなアカンの」と言った若いお母さんの話を聞いたりしますが、もちろん「いただきます」は誰かに貰ったということではなく、「命を頂きます」の意味です。 最近は「分子生物学」というすごい学問が発達して、私たちの身体を作っている目に見えない分子を追いかけられるそうです。調べてみると。私たちの身体は、ほんの数週間で全てが入れ替わるのだそうです。口の中の粘膜なんか一番早くて数日で入れ替るそうです。自分では気づいていませんが、事実は私たちの身体は、細胞レベルで日々、一瞬一瞬死に、生まれているという事なのです。その生まれることを支えるのが食事、まさに命を頂いているのです。だから、身体の出来あがった大人が寝ているだけでも一週間も食べなければ死んでしまうわけです。一瞬一瞬、死に替り生まれ代わりする命を、私は生きているのです。それが事実。  そのような「命の法則」に私たちは従っています。そのような「信じ従う」が「帰命」の意味、「南無」の意味なのです。
ナマステー はインドの挨拶の言葉です、 どんな時も合掌して「ナマステー」です。「おはよう」 も「こんにちは」も「頂きます」も「ナマステー」です。 「ナマス」は「南無」、「テー」は「あなたに」の意味です。初めての人に会う時も「私はアナタと共なる阿弥陀なる命を生きる者です。アナタを信じ従います」という意味の挨拶をするのですから、インドも大した国だなと思います。まあ現実は、欲望絶対肯定のヒンドゥー教の元、怒鳴り合いなど、喧騒に満ちた街を形作っている国なのですが、まあ根っこにはそのような大いなる「教え」が在るということです。
ごちそうさま も今月の最後に触れておきましょう。 「ごちそう」とは「ご馳走」、「馳せ走る・走り回る」の 意味です。私が今頂いた食事は、多くの方々が走り回っ て下さった結果なのだということです。 今日、マグロの刺身を「おいしいな」と食べたということは、地球の裏側で、マグロを捕ってくれた人がおられるということ、冷凍し空輸し商いし運んで捌いてスーパーの店頭に並べてくれた人々がおられる。 自分は気づいていなかったし、コロッと忘れていたけれど、多くの方々の働きの結果を、今頂いているということです。 こういうことを言うと、すぐに「感謝しなさい」なんて言う方がいますが、そんなことはどうでもいいことです。私みたいなものが感謝しようがしまいが、事実は事実です。大切なのは「事実を知る」ということです。知ったならば当然、私の考えも行動も変わってくるでしょう
真実の教え 「佛教」と言っても一般には、いろいろある教えのひとつと思われていますが、実はそうではありません。「佛」とは「真実に目覚めた方」という意味ですから、「佛教」とは「真実の教え」のことです。自分たちがついつい忘れている「真実」に気づかせる教えです。 だからキリスト教もイスラム教も、神道も天理教も金光教も、何でもいいんです。命を生きる者全てに普遍的な、存在の根本に在る、真実に気付かしめる。アナタと私は「違う」けれど、その奥底には、アミダなる共なる命が流れている。共なる命が唯一無二のアナタに成り、共なる命が唯一無二の私に成っている。その事実です。

―――以上『顛倒』14年12月号 No.372より ―――

          

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