正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第四十回

  証歓喜地しょうかんぎじ生安楽しょうあんらく

今月は、龍樹菩薩の続き、お釈迦様の予告が続きます。訳しますと「龍樹菩薩は、歓喜地を証し、安楽(国)に生まれられる」です。言葉に当たります。


歓喜地とは、佛教一般で言いますと、菩薩の悟りの「位」を表す言葉で、52段階の「位」の41段目とされます。ここまで悟りを開くと、躍り上がるほどの喜びなので「歓喜地」と呼ばれるのです。 。
 しかし、親鸞の浄土真宗の教えは、「本願他力」で、自らの修行に依らず、阿彌陀佛の大きな修行にお任せする教えですから、ここでの「歓喜地」とは、阿彌陀佛の本願によって、自分が間違いなく浄土に往生させてもらえることが、身にしみて喜べること、それが「歓喜地を証する」ことになります。阿彌陀佛より頂く信心を、素直に受け取り、「南無阿彌陀佛」を虚心に頂くこと、これが「歓喜地を証すること」だと、親鸞は言われます。
 「正信偈」には、「歓喜」とか「慶喜」とか、喜びの気持ちを表わす言葉が多くありますが、それは、親鸞さまの正直な気持ちの表現でしょう。真実の教えに触れることは、本当にうれしい事なのだと言っておられるのです。

そして、だから当然ながら、安楽国、すなわち阿彌陀佛の極楽浄土に生まれられるという事なのです


  さあそこで、「浄土往生」とは、具体的にはどういう事を意味するのかという大問題があります。
 これまた、一般には、「亡くなってから極楽浄土に行かせて頂く」と受け取る方が多いようです。でもそれだと、「浄土はどこにあるのか」「どんな場所か」「行った証明はあるのか」という当然な疑問が生じ、全く解決はつきません。しかし、我が浄土真宗は、そうではなく、「即得往生」です。根本経典である「無量寿経」「観無量寿経」「阿彌陀経」のどれにも、何度も「即得往生」という言葉がでてきます。「即に、往生を得る」です。親鸞さまのお手紙を纏めた、『末燈鈔(まっとうしょう)には、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。」 という言葉もあります。真実に触れた時、その時に浄土往生が定まるのです。


 例えましたら、新大阪駅で「のぞみ」の指定席券を買って、席に座ったようなものです。まだ東京駅には着いていないけれど、必ず東京駅に着くのだ。ということです。ですから、「浄土往生」の現代語訳は「浄土を願って生きて往く」となります。「浄土」という、あらゆるいのちが水平に出逢う場を信頼し、そのような「場」を開くことを願って生きて往く。それは同時に自分自身の本来の願いでもありましょう。他におもんぱかる事なく、自分自身を素直に生きて往く事が始る。それは本当にこの上ない歓喜なのです。

―――以上『顛倒』2018年7月号 No.415より ―――

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