正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第三十九回

  宣説大乗せんぜだいじょう無上法むじょうほう

今月は、七高層の第一、龍樹菩薩の続きお釈迦様の予告が続きます。サラッと訳しますと、「龍樹菩薩が大乗のこの上無き法を説き宣べる。」です。言葉に当たります。


 大乗とは、大乗仏教の事ですが、だいぶ複雑な言葉ですので、ゆっくり解説していきます。元々は、大乗は、大きな乗り物という意味で、小さな乗り物を意味する「小乗」に対する言葉です。小乗仏教は、釈迦に近づこうと厳しい修行をするのですが、それは、少しの人にしか出来ない事だから、「小さい」と言います。それに比して、「大乗」は、どんな人でも新人があれば救われるという意味で、「大きい」と言うのです。自分より先に皆を救うことを優先し、自分が救われるかどうかは、佛に任せるという考え方です。また、歴史的にも、インドからガンダーラ、シルクロード、中国、朝鮮、そして日本に至る佛教の流を「大乗」、インドからスリランカ、東南アジアに至る流れを「小乗」と呼んでいました。

 しかし、現代では、「小乗」と言うのは、「大乗」から観た蔑視の言い方であるとして使わず、「上座部佛教」と言います。前記した佛教の流も、それぞれ「北伝佛教」「南伝佛教」と呼ばれます。これが、一般的な解説です。が、私(住職)は、少し違う捉え方、すなわし「大乗、小乗」とは、佛道を歩もうとする者が、陥りがちな誤りを、指摘する言葉である」と捉えています。何故なら、北伝佛教でも「大乗」と言いながら、結局は厳しい修行をする「聖道(しょうどう)門」と、阿弥陀仏に全てお任せする「浄土門」に別れて行きましたので。
 今でも世間の意識は、お坊さんというと「厳しい修業をしたエライ人」という感じではありませんか。まったく「大乗」ではなく「小乗」的なのです。

 そこに気づいたお坊さんが、親鸞と、その先生である法然です。例えば、有名な比叡山の荒行、千日回峰行。法然も親鸞も、若いころは比叡山で修業されていましたから、よくご存じの修行です。親鸞などは、とても真面目な方ですから、記録には残っていませんが、よく似た修行をなさっていた可能性さえあります。しかし、修行されたからこそ、「これではアカン」と気づかれたのです。
 「厳しい修行を修めた方は偉いかもしれないが、それが出来なければ救われないなら、救われるのは、百万人に一人くらいになってしまう。お釈迦様の教えは、そんな小さなものではないはずだ。皆に救われる可能性がある大きなものでなければならない」と、阿弥陀仏の大きな修行にお任せする「ただ南無阿弥陀仏」という教えにたどり着かれたのです。と気付いて行きますと、この「無上」も、普通は「この上無い」でしょうが、「上の無い教え」と読むことが出来ます。普通の人間の思いは、厳しい修行を積んで、誰もが出来ない事が出来ることに値打ちを見い出しますが「大乗」という佛教本来の在り方は、誰も漏らすことの無い、一番低い事が一番素晴らしいという、常識の転回なのです。

―――以上『顛倒』2018年6月号 No.414より ―――

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