正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第十回
無碍光(むげこう)
 光雲無碍如虚空
 一切の有碍にさはりなし
 光澤かふらぬものぞなき
 難思議を帰命せよ

先ず簡単に訳してみましょう。
 阿弥陀佛の光明は、空の雲のようで、何もない大空のように、 いかなるものにも障碍されず、一切の人々にも障りなく行き渡ります。 また、光明の働きを受けない人は誰一人としていません。 ですから、凡夫の心で思うことが難しいほど勝れた働きを具えた阿弥陀仏を馮みなさい。

 言葉を観ていきましょう
 昔「浮浪雲(はぐれぐも)」という、ジョージ秋山という漫画家の人気マンガがありました。 江戸時代の宿場町が舞台で、人足屋の大将が主人公。 何事にもこだわりが無く飄々として、トラブルを解決していく物語でした。
 そのように、阿弥陀佛の光明の無碍なること、自在なることが、「虚空」に浮かぶ「雲」で表現されています。

 無碍(むげ)この言葉を観ると、いつも昔、瑞興寺に毎月お話しに来て頂いていた仲野良俊師の言葉を思い出します。
「無碍ちゅうのはなあ、碍り無いのとはちゃう。 いろんな障害は山ほどあるんやけど、真実の教えに触れたらなあ、みんな碍りで無くなるちゅうことや」と、 いつも仰っていました。正信偈の後の方に出てくる「遊煩悩林現神通」です。 「煩悩の大木はいっぱいあるけど、それを切り倒さずとも、遊々と歩いていける」。「自由自在」です。
 もう一つ、「雲」には、「雨」を降らせて大地を潤すイメージが込められています。
 お釈迦様の誕生を祝う「花まつり」で、甘茶を釈迦誕生佛に注ぎますが、 あれは、天から降り注いだ甘い清らかな雨を意味していて、『甘露の法雨(かんろのほうう)』と言います。 お釈迦様の教えは、口に甘く、心に潤いや安らぎを与える事を意味します。 また、観音経には、観世音菩薩が「甘露の法雨をそそぎ給いて煩悩の炎を滅除し」といった言葉があります。

有碍(うげ)とは、無碍に対する、碍り在る者で、私たち凡夫の事、有限なる存在、不自由不自在という事です。でもそれは当たり前の事で、 「無有代者」と佛は言いますが、代わる者無い私を生きているのですから。
でもそのような存在が、南無阿弥陀佛もうすことで、自在に生きて往くことが出来るというのです。
 有り得ないことです。有難いことです。だから当然、難思議です。 人間の根性で解る訳がありません。解るようなものなら、人間より小さいものにすぎません。 そんなチッポケなものではなく、広大な阿弥陀佛にお任せするしか、他に道は無いでしょう。と説かれているのです。



―――以上『顛倒』15年9月号 No.381より ―――

          

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