正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第六回
建立無上殊勝願 超發稀有大弘誓 を訳してみます。

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上が無い勝れた願いを建立し、かつてない大いなる誓いをおこされた。です。
 先ず無上に注目します。普通に訳すと「この上無い」ですが、親鸞さまの場合は、 「上が無い」と訳したいと私は思うのです。 言い換えると「下ばかり」です、上が優れていて下が劣っているという人間の常識をひっくり返す言葉です。
 我々浄土真宗の門徒は、その佛名を法名といいます。他宗では戒名です。何故でしょうか。 戒名とは「戒律を守る者です」という意味、いわゆる修業する者という意味です。
 しかし、親鸞さまは、大切な事だけれど、戒名には落とし穴があると言われるのです。 例えば、修行の有無を問題にすると、必ず出来る者と出来ない者が分断されます。

 比叡山の一番厳しい修行の一つに「千日回峰行」があります。 七年間で千日、比叡山の山を巡り、各所でお勤めして廻り、 最後は一週間不眠不休でお堂に籠ってお勤めするという荒行です。 しかし、その修行が出来る方は偉いかもしれないけれど、 その修行をしなければ救われないとするなら、救われる人は十万人に一人、百万人に一人という事になってしまいます。 「佛の救いは、そんなチッポケなものではない」というのが、親鸞さまの主張です。 あらゆる者に救いの可能性が在るのが、本来の佛の救いです。だから本来は法名だと言われるのです。
 修行を否定はしていません。 私の修行うんぬんではなく、すでに阿弥陀佛が我々のために大きな修行をして下さっているのです。 それに気づき、その願いに、佛法に包まれて在る「私」に気づいた者の名告りが法名なのです。
 確かに気付いていない人は多いでしょう。でも気づくことは誰にでも可能性があります。 賢者も愚者も金持ちも貧乏も男も女も老いも若きも、同じ機会です。 それが阿弥陀佛の誓願。親鸞さまが人間の修行を否定して初めて本当の宗教が誕生したとも言えるでしょう。 だって、例外が在るという事は、真実ではないということですから。
 善悪もそうでしたが、また親鸞さまは、我々の常識を覆します。 誰もが出来ないことを出来る事が偉いと私たちは思っています。 イチローやマー君は、他人の出来ないヒットを打ち、球を投げるから何億円も稼げるのです。 当たり前ですよね。でも親鸞さまは違うのです。 それは小さなことだ、誰もが出来る事が一番大きなことなのだと、一番低いことが一番すごいことなのだと。言われるのです。

 まさに殊勝で稀有です。 殊勝の意味は「特に優れている」ですが、佛教では、 「謙虚を根底に置いた、けなげで感心なこと」ですし、稀有も、「珍しい」という意味ですが、 その底に「とんでもない。けしからぬ」という含意があります。 常識外れの、とんでもない、珍しい、かってない、けなげな、阿弥陀佛の誓い願いを説く教えなのです。

―――以上『顛倒』15年5月号 No.377より ―――

          

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