正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第三回
「南無阿弥陀佛」「佛」は、 「ブッダ」という梵語の音を写して「佛」という漢字で表されますが、 「正信偈」では「帰命無量壽如来」で、「如来」と、その意味が訳されます。
「ブッダ」とは「真理に目覚めた方」という意味ですが、「目覚める」とか「気づく」などと聞くと、すぐに私たちは、 自分の力で「気づく」「目覚める」と受け取りがちです。がそうではなく、それは「如来」なのだと親鸞は言われます。
「如」は、その漢字一字で「真実の世界」を表し、それが「来る」。すなわち、真実の働きが、私のところまで 「来」て=「如来して」、初めて、この私に目覚める、気づくことが始まる。 という意味内容を、「佛」を「如来」と訳すことで表現されるのです。

 「仏・ぶつ・佛」  普段、私は「仏」という 略字ではなく「佛」という漢字を使うように心がけています。なぜかと言うと、 先ほど、音を写して「佛」の漢字を用いたといいましたが、実はこの漢字には、 音だけに留まらない、もっと深い意味が隠されているからです。
 「佛」の「にんべん」を「さんずい」に代えると「沸」という漢字になります。
「にんべん」は「人」を表し、「さんずい」は「水」を表します。 「沸」は「沸騰」の「沸」ですから、水が沸くこと、すなわち「水蒸気」です。 ですから、「人」と「佛」との関係は、「水」と「水蒸気」の関係と同じというわけです。
 本当に漢字とはうまく作られているものです。
 目の前の器にある「水」は、ここにしかありません。が、 「水蒸気」は「H2O」という本質は同じですが、この部屋の中のどこにでも在って、しかも見えません。 それと同じように、「人」はここにしかおれませんが、本質は同じ「佛」は、この周りのどこにでも居られ、 しかも目に見えません。そういう意味を、この漢字は表しています。
 これが、私が「佛」の漢字を用いる理由です。

 「ほとけ」 一方、私は、「ほとけ」という言葉を、あまり用いないようにしています。どうでしょうか。
 「ほとけ」という言葉を使うとき、そこに「亡くなった人」という意味が大きく含まれるのではないでしょうか。
 本来の「ブッダ」という言葉は、「真理に目覚めた方」という意味であって、「死んだ人」という意味は全くありません。 が、「ほとけ」というと「死んだ人」の意味が含まれて、結局、『佛』という言葉が大きく誤解されたまま、 現在に至っているのではないでしょうか。例えば、「物が壊れる」ことを「おシャカになる」と言ったり、 殺人現場で刑事が死体のことを「ほとけ」と言ったりです。これは、親鸞さまの頃も同じで、こんな和讃を残されています。
 やすくすすめんためにとて ほとけと守屋がもうすゆえ
  ときの外道みなともに 如来をほとけとさだめたり
 弓削の守屋の大連  邪見きわまりなきゆえに
  よろずのものをすすめんと やすくほとけともうしけり
 和讃の「守屋」とは、物部守屋の事で、聖徳太子が佛教を導入して日本の国を治めようとされた時に、 佛教に反対して、佛像や佛殿を打壊し、大きな戦を起こした張本人です。 その守屋が、「佛を悪く言うために、如来をほとけと呼んだ」ということなのです。
 
 先立たれた方は諸佛
 ただそれでは、「亡くなった人」は「佛」ではないのかというと、それは違います。 「亡くなる」ということは、まさに「限りあるいのちを生きている私であった」という「真理」を身を持って気づかれ、 表しておられるという意味があります。また、生前どのような方であって、今生のいのちを終えられた方は皆、等しく諸佛、 ほとけ様だという、ある意味、豊かな日本的感性が、そこにはあると、私は思います。
私たちは、日々、お仏壇のお給仕をし、手を合わせて念佛申し、亡くなられた方々とも身近にお付き合いしてきたのです。 そうして、その方々が、まさに残された我々に佛の教えに出会う御縁、佛縁を開いてくださる。 そういう事々が、日本の伝統と言えるでしょう。

shoshingetuginogyou  さあ、正信偈の次の行です。法蔵菩薩とは、阿弥陀佛が佛に成られる以前の名前です。
 「菩薩」とは、「佛」に成ることが約束された方のこと、すなわち、「大きな願いを建てて、その実現に精進されている方」のことです。
 『無量寿経(大経)』には、次のような物語が描いてあります。
 「あるとき、一人の国王が、仏の説法を聞いて深く心に感ずるところがあり、 求道心を起こして、国を捨て、王位を棄てて、道を求め、世自在王仏をたずね、 あらゆる人間を、摂い取って捨てない。という大いなる願いを誓われ、 法蔵菩薩と名のり、その誓願を成し遂げて、阿弥陀佛に成られた」と。 「因位時」とは、まさに「成仏していこうとする時」で、佛に成る「因」を持たれた時のことです。

 無量寿経(大経)
 「お経」とは物語であり、「真実の教え」を「神話的表現」で語るものですが、大経にある、 法蔵菩薩が阿弥陀佛に成られる神話は、お釈迦様が悟りを開かれた歴史的事実を下敷きにしています。
ゴータマ・シッダッタという、古代インドのシャカ国の皇子さまが国を捨て、位を棄て、 妻子を捨てて、出家され、修行を積み、ついにその苦行の意味の無さを悟って、静かに瞑想に座して悟りを開き、 全ての人間の解放の道に気づかれた。その事実を神話的に語っているのです。

 法蔵の名告り
 しかし何故、法蔵という名告りをされたのでしょうか。その意味を尋ねたいと思います。
 「法」とは「道理」のことで、「本来そうであること」です。「蔵」は、「内に保っている」です。 参考書には、「法」=久遠實成の阿弥陀の証を秘めて、「蔵」=その願いを具体化する相を示す。とあります。
    そこから受け取れることは、法蔵の誓願=あらゆる人を救うという願いは、特別な事ではなく、 あらゆる、いのちを生きる者が本来持っている願いだということです。もちろん、普通の人間にはとうてい望めない願いではあります。 がそれは、我々がいかに本来から外れた生き方をしているかという事なのです。
 そんな「私」であっても、その本来持っている誓願に気づいた時、 そこにその願いを行じる=浄土を願って生きる「一人の菩薩」が誕生するのです。 そう!法蔵とは、本来の私の事だったのです。 【つづく】

―――以上『顛倒』15年2月号 No.374より ―――

          

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