
今月は、言葉の意味をひとつひとつ当たりましょう。

五濁(ごじょく)は、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁という、この世に表れる五つの汚れの事で、『佛説阿弥陀経』に出てきます。



煩悩濁(ぼんのうじょく)は、煩悩による汚れという事で、欲望や憎しみなど、 人間の煩悩によって起こされる悪が横行する状態です。
煩悩は微妙な言葉です。 私たちは煩悩と聞くと、何か悪い事であるかのように、 煩悩を減らしたり、断ち切ったりして良いものになろうとします。 が、そんなことは不可能なのです。 人間が生きるという事自体が煩悩なのですから。 では、何もする意味が無いのか。 そうではなく、煩悩の質は変えうるのです。 例えば、欲望は煩悩ですが、貪欲という貪る欲から、 意欲という何事かを成そうという欲に変える事は出来るのです。 親鸞も「煩悩の林に遊ぶ」という表現を、 この正信偈の後の部分で仰っています。

衆生濁(しゅじょうじょく)は、衆生の汚れという事で人間のあり方そのものが汚れ、 心身ともに、人びとの資質が衰えた状態に成る事ですが、これも現代社会の事です。 時代社会が濁るのは、他でもないそこに生きる人間の思想が、 行動が、存在が濁るからです。が同時にそれは、時代社会の問題と言っても、 人間の問題なのだから、人間の力によって変えうる事もできる、と解ります。


―――以上『顛倒』2017年2月号 No.398より ―――