
読み下しは「信を獲て見て敬い 大きに慶喜すれば、すなわち横に五悪趣を超載す」です。
今月は、言葉の意味に深いものがたくさんあります。一つーつ当たります。

獲信 ぎゃくしん
「信心獲得」を略して「獲信」です。
「獲得」は、「獲物を得る」ですから、今まで自分のモノでなかったものが、自分の物になる事で、親鷺さまの教えに特徴的な要点です。一般に「信心」と言うと、「信ずる者は救われる」とか言って、「この私が信じる」と受け取っている方が多いですが、親鷺さまの「信心」は全く違うのです。「真実という自分の思いには全く無かった事を手に入れる、気づく」という意味なのです。そう。「信じる者は編される」のですよ。

この言葉も一般とは相当違います。普通には「佛を見て敬う」という意味ですが、 親鷺さんは、「阿弥陀沸(=永遠無限の視点)の根本の願いを知ると、 自分自身の本当の姿が見えてくる、そうすると、見せてくださった阿弥陀悌の本願を敬えるようになり、 大きな喜びとなるのだ」と仰います。

「この信心をうるを慶喜というなり。慶喜する人は、諸仏とひとしき人となづく。 慶は、よろこぶという。信心をえて後によろこぶなり。 喜は、こころのうちに、よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。 うべきことをえて後に、身にも、心にも、よろこぶこころなり」
本当の事を知った後は、身も心も躍り上がるような喜びに満たされるのです。 何故か、それが次の一行です。

五悪趣ごあくしゆ
とは、地獄・餓鬼・畜生・人・ 天の事で、 人間がぐるぐる回る迷いの状態を意味します。それを超截する。

超截 ちょうさい
すなわち、「飛び越えて、束縛を断ち切る」それも、「横」に「即」に。
横超 おうちょう

全文を訳すと「阿弥陀悌の永遠無限の視点に気づけば、 自身の迷いの姿が見えてきて、即時に一挙に横っ飛びに迷いが晴れます。 だからこそ、阿弥陀銘の本願を敬う事ができ真実に生きる、 大きな喜びに身も心も躍り上がります。」
―――以上『顛倒』2017年10月号 No.406より ―――