不断光(ふだんこう)光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆゑなれば
心不断にて往生す
五月は、不断光佛です。曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
光明一切時普照 故仏又号不断光
聞光力故心不断 皆得往生故頂礼 です。
偈文を訳しますと、
「光明は一切の時にあまねく照らす
故に佛をまた不断光と号す
この光の働きを聞く力の故に、その心は断えないで
皆、往生を得させられる 故に礼拝したてまつる」です。
和讃の意味も基本的に偈文と同じです。
特徴的な言葉が聞光力と心不断です。
阿弥陀佛の智慧の光明の働きを聞き信ずる力です。
浄土真宗では、伝統的に『聞く』ということを大切にしています。
「親鸞の浄土真宗は聞法につきる」といった言い方です。
親鸞さまは、この言葉に「弥陀の御ちかひを信じまゐらするなり」と解説を付けられています。
阿弥陀佛の誓いとは、「あらゆる人を摂い取って捨てない」という誓いです。
その誓いを信ずる事が「聞く」という事だと言われるのです。
また別に、「聞といふは聞くといふなり。
聞くといふはこの法を聞きて信じて常に絶えぬ心なり」とも解説されています。
阿弥陀佛の誓いを、聞いて、聞いて、聞き抜き、疑いを通して確かになるのが「聞」なのです。
だからこそ、そこで「力」になるのでしょう。「聞」が「信」であり、それが「力」であるというのは、誠に興味深いです。 普通「聞く」というと、話を聞く事を思いますが、親鸞さまの「聞く」は、そこに留まりません。 「聞法」も「佛法を説く話を聞く」に留まらず、「佛法に生きる、その人を聞く、 その人に出逢う」という事なのです。 そして「出逢う」ということも、単なる「会う」ではなく「ああ、こんな素晴らしい人がいる。 このような人になりたい」と願う事でしょう。 それは「素晴らしい人がいる、でも私は」という言い訳、逃げではありません。 自分自身に誓うことであり、だから具体的な「力」になって、私自身を押し出し、引っぱってくれるのです。
もう一つ大切な言葉が「心不断」。
親鸞さまの解説では「信じて常に絶えぬ心」「弥陀の誓願を信ぜる心絶えずして往生すとなり」
「菩提心の絶えぬによりて不断という」などがあります。真実信心を得る内実を「住不退転」と言います。 まさに、「真実に生きよう=阿弥陀佛の願いを我が願いとして生きて往こう」と はっきりした、ハッキリしたからこそ、退く事がない。 「他が喜び、自分が喜び、世界が喜ぶ、ことに取り組み続けて往こう」と願い続けられる。 自分の力ではなく、阿弥陀佛の永遠無限の働きが私自身を引っぱり続けて下さるのです。
―――以上『顛倒』16年5月号 No.389より ―――

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