正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第二十七回
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 

 読み下しは「凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるが如し」です。 サラッと訳すと「凡夫も聖者も五逆謗法のものも、みな本願に帰すれば、 どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」。    です。言葉に当たって行きましょう。

 親鸞の浄土真宗によく出てくる言葉です。浅く読むと「平凡な人」ですが、佛教的には、そうではなく、 「我見にとらわれている人。私が正しいと、自と他とを区別し自分に執着している人」の事で、 むしろ世間では「エラい人」に多いかもしれません。 親鸞は「どんな人も自分は凡夫だと気づきなさい」と、自らの自覚の言葉として大切にされます。

凡夫に対する言葉です。一般的には「煩悩を払い捨て、正しい道理を悟った人」ですが、 4月号で「不断煩悩得涅槃」を学んだ我々、真宗門徒は「道理を知る人」と読みましょう。

佛教で、とても大切な、最も重い罪を五つに分けて説く言葉です。  @父を殺す A母を殺す B阿羅漢(あらかん・佛道修 行者)を殺す C僧の和合を破る D佛身を傷つける 事をいい、一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれます。 この五つの罪の受け留めは、また改めて詳しく書きます。

謗法は「誹謗正法」の略で、佛の正しい教えを貶す、軽んじる、非難する事です。 これまた改めて書きますが、ここでは、「凡聖逆謗」で「あらゆるいろんな人々」と読みましょう。 「どのような人であろうとも、難しい修行をするとか、善い行いを積み重ねるとか、そんな条件無しに、 永遠無限の光の命である、阿彌陀佛の本願に帰入すれば、斉しく救われる」と親鸞は説かれ、 そしてその働きを「海」に喩えます。「海」は聖教によく出てきます。

 大海 すなわち、智慧海、難度海、功徳大宝海、誓願海、群生海、本願海、一乗海、等々。

 親鸞は、『教行信証』に、「海と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、 逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩うる.」とか、 「佛の一切種智、深広にして涯なし、二乗雑善の中下の屍骸を宿さず、これを海のごとしと喩う」とか言われます。 ここでは、特に「転ずる」「深く広い」が大切です。親鸞はまた別に、「悪を転じて徳を成す正智」とも説かれます。

 私たちはすぐに悪をやめて善を行う事を思いますが、親鸞は、「そうではないのだ」と。 「善を行う事は当然な事だが、凡夫である人間が善を行うなんて事は、必ず濁ってしまう事を、よく知っておかねばならない」。 そして、「あらゆる海水を受け入れる"海"が在る事を信頼しなさい」 「そういう永遠無限の正智を戴けば、外見は同じ行いに見えてもその視野が深く広く、中身の質が転ずるのだ」と説かれるのです。

―――以上『顛倒』2017年5月号 No.401より ―――

          

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