超日月光照塵刹
一切群生蒙光照
十二光の最後の部分から正信偈の二行を見ていきます。 さらっと訳すと、「日月を超えた光を放ち、数え切れない世界を照らし すべてのいのちあるものが、この光明に照らされている」ですが、言葉を見ていきましょう。
「塵」は「ちり」です。 1.小さなゴミ 2.俗世間のわずらわしさ 3.ほんの少し と辞書にあります。「刹」は「せつ」。 意味は1.佛塔。寺院。2.国土。佛国土。 とあり、「塵刹」とは「ちりのような世界」という意味になります。
しかし、この「刹」には、「刹那」という有名な熟語があります。
辞書には、「サンスクリット語「ksana」の音写で、漢訳は「念」。 佛教語で時間の最小単位を意味し、指を弾く時間の65分の1を「一刹那」とするなど諸説ある。 本来は、「刹那という極めて短い時間を大切に生きよ」という教えだが、「刹那的」と、 その瞬間だけを感情的に生きるという負の意味でよく使われる」。とあります。
と見てくると、単なる数の多さや小さいという意味に留まらず。 「俗世間にまみれて生きる、ひとり一人の一瞬一瞬を照らす」。という味わいになり、二行目に続きます。
蒙の意味は、1. おおう。かぶさる。2.くら い。物知らずで道理がわからない。とあります。 一般には、1.の意味で「すべてを覆う」と訳しますが、2.の意味も「道理に暗い私たち」という意味が含まれていて味わい深いです。 このように、言葉の深い意味を観ていくと、親鸞が「超日月光」を述べた、また別の和讃に気づきます。
左の和讃の意味は「阿弥陀如来は私たちを、母が子を念ずるように憐れんで、念佛に専念することを教えて下さる」で、 この和讃は、大勢至菩薩和讃八首の一つです。 勢至菩薩とは智恵の菩薩で、親鸞は、師法然の事を勢至の生まれ変わりであると言います。
このように観てきますと、正信偈のこの二行は、最初に述べたさらっとした意味に留まらず。 次のようになります。「日月という人間の常識を超える阿弥陀佛の光は、俗世間にまみれて生きる、 私たち、ひとり一人の一瞬一瞬を照らし、親鸞にとっての法然がそうであったように、 道理に暗い私たち、全ての人々に、無明の闇を破る智恵を与えて下さるのだ」。となります。 誠に有難いことです。また別の上記、勢至和讃で親鸞が、「最後の如来」と強調される
―――以上『顛倒』16年9月号 No.393より ―――