正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第十九回

  光明月日に勝過して
      超日月光となづけたり
        釈迦嘆じてなほつきず
          無等等を帰命せよ 


八月は、超日月光佛です

曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
     光明照曜過日月  故佛号超日月光
       釈迦佛歎尚不尽   故我稽首無等等  です。

偈文を訳しますと、「阿弥陀佛の智慧の光明は、 日月の光よりはるかに勝れているので阿弥陀佛を「超日月光佛」と号す  お釈迦さまですらこの智慧の徳をほめ尽くしておられない  等しく並ぶもののない阿弥陀佛に帰命しよう」です。親鸞の和讃は全く同じ意味です。

 言葉を観ていきましょう。「無等等」は、「等しく並ぶもののない存在(阿弥陀佛)」です。
 正信偈のこの部分、阿弥陀佛が十二の光に喩えられてきましたが、ついに最後です。 「超日月光」は、これまでの十一の光をまとめた呼び名と言われます。何故それが「日月」と対比されるのか。
 阿弥陀佛の智慧の光明が、日月の光を超えた光に喩えられるのですが、一般的に解説されるのは、太陽の光は昼間に輝き、 夜は照らさない。逆に、月の光は、夜は照らすけれども昼は輝かない。また、どちらの光も影を作る。 それに対して、阿弥陀佛の光明は、偏りがなく、届かないところがなく、勝れていると、言われます。

 一方、日本神話の『古事記』に興味深い説話があります。日本の「国創り」の神はイザナギ・イザナミですが、 日本列島で最初に創られるのは、淡路島、続いて四国、九州が創られ、その後に、たくさんの神々が生み出されます。 その途中に、イザナミが死にます。 イザナギはイザナミを探して黄泉(ヨミ)の国へ赴きますが、 イザナミは変わり果てた姿になっていたため、おののいたイザナギは逃げます。

 イザナギは黄泉のケガレを清めるために禊ぎをします。 左の目を洗うと天照大神(日の神、昼を支配)が、右の目を洗うと月読命(月の神、夜を支配)が、 鼻を洗うと須佐之男(海を支配)が生まれ、その三神にイザナギは世界の支配を命じられた。とあります。

 要するに、「日月」とは、私たちの日常を表現しているのでしょう。 「民族学」で「三不浄」と言いますが、死穢(黒不浄)生理穢(赤不浄)産穢(白不浄)です。 赤白は出産に関わり、黒は死です。すなわち人の始まりと終わり。 本来、自然な当たり前な事を、自分の「思い」を優先して、「穢れ」として恐れ遠ざけ、あげくのはては、差別する。 まさに真理に暗い我々の日常です。阿弥陀なる永遠無限の大いなる眼を頂いて初めて、 暗い私たちの闇が晴れ、「選ばず・嫌わず・見捨てず」という開放された、自在な生活が得られるのです。



―――以上『顛倒』16年8月号 No.392より ―――

          

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