正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第二十九回


 読み下しは「摂取の心光 常に摂護したまう」です。サラッと訳すと「阿弥陀佛の心は、全てを摂(おさ)め取(と)って捨(す)てない光であり、常に私たちを照(て)らし護(まも)って下さいます」です。
 親鸞の浄土真宗を一言で言うと、「ただナムアミダブツ」。そして「解っても判らんでもいいから、ナムアミダブツと、口にしなさい」と、理不尽な事を言われるのです。
 現代人は、みな賢いですから、これが難しい。「訳の判らん言葉を言うなんて、この私のプライドが許さない」のです。いつも言う事ですが、私(住職)も、お坊さんになるために京都の大谷専修学院で、初めて親鸞の教えに触れた時、これが一番ハードルが高かったです。

 卒業面接の時、先生方の前で、「一年間学んできて、親鸞は真実を説いていると確信する。その親鸞がナムアミダブツせよと言われるので、まだ納得はしていないが、念佛してみようと思う」と僕が言うと、当時の院長先生がニコリとして、「やっと貴方も念佛できるようになりましたか」と仰った事が、昨日の事のように思い起こされます。 もっとも、本来は「解っても判らんでも」なんですが、意味を尋ねていくと、「当たり前」のことなのです。

 正信偈講話の最初のところで述べましたが、「阿彌陀」とは昔の印度の言葉でa-mita 。ミタはメーターですから、ガスのメーターと同じで「量る」。aは打ち消しですから、「量ることができない」、すなわち「永遠無限」、すなわち、光。真実。無量寿。という意味です。永遠無限の佛ですから、当然、私たちを全て包み込んでおられるわけです。

 このことを、蓮如上人は『御文』で何度も、「南無阿弥陀仏と帰命したてまつるうちに、みなこもれるがゆえに」と言われ、それでも何か他の諸々にすがろうとする私たちに向かって、さらに突き詰めて、「そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆえに、なにの不足ありてか諸行諸善にこころをとどむべきや」と仰います。

そうなんです。「摂取心光常摂護」とは「事実」なんです。それに気づいていない「私」が居る、という事です。

 宗教には「自覚の宗教」と「信ずる宗教」があります。

一般の宗教は、自分の外に在る、何か超人的な存在を認め、信じる事で救われるというものですが、佛教は、そうではなく、真実の道を歩まれた、お釈迦様の生き方をお手本に、私もまた「真実に生きよう」とする教えなのです。

 「私の代りに食べてくれ」と言っても、私は少しも満腹になりません。「私の代りに大便をしてくれ」と言っても、私のお腹の痛みは取れません。それぞれが、代わる事のできない命を生きており、この事実は仏教徒であろうが、他の宗教の信者であろうが、「宗教なんか意味が無い」と言う無宗教の方であろうが、決して例外はありません。

 佛教は「頂いたこの命を生きるのは、自分しかいないのだ」と受け止めて生きる『自覚の宗教』です。その「身の事実に気づきましょう」という「教え」です。




―――以上『顛倒』2017年7月号 No.403より ―――

          

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