能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
読み下しは「能く一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」。
言葉に当たって行きましょう。
応信「応に信ずべし」ですが、「信に応じる」とも読めます。
「能発」の「発」について、親鸞は「昔よりありしことをおこすを発といふ」と言われます。 「一念喜愛心」が、私に生まれる事も、私が起こすのではなく、 私の中に元々あったものが開発(かいほつ)されてくる、という事です。
「一念喜愛心」については、親鸞は「一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土にうまるとしるべし。 慶喜というは、信をえてのちよろこぶこころをいうなり」と、 『尊号真像銘文』という書物で仰っていますが、私は「一念」に着目したいと思います。
「一念岩をも通す」ということわざがありますが、「一途に思いを込める」事の大切さが思われます。 自分の側の一途さも大切ですが、これも自分が起こすのではなく、阿弥陀佛から賜る「一念を一途に戴く」といった感じです。
二行目は、浄土真宗の要の言葉です。 この正信偈の後の部分に「煩悩の林に遊ぶ」という言葉もありますが、「不断煩悩」こそ、まさに浄土真宗なのです。 世間一般に「門徒もの知らず」という言い方があります。 軽く受け止めると「無知でよい」と、門徒をバカにした言葉のように思えますが、実はそうではありません。
煩悩とは「煩(わずら)いや悩(なや)み」、「身を煩(わずら)わし、心を悩(なや)ます」モノですが、 普通は、「それはマイナスなことだからできるだけ、それらを抑えよう、無くそう」とするわけです。 要するに、「善い者になって救いをえよう」と思うのですが、親鸞は、そんな人間の心、行いに先ず絶望されます。
「どこまでちゃんとしようしても、やり切れるものではない」と、それが「罪悪深重煩悩熾盛」という親鸞の人間観です。 が、そこで座り込むのではなく、だからこそ、そんな残念な私だからこそ、 「えらばず、みすてず、きらわず」という、 「摂取不捨」という阿弥陀佛の願い、一念の信を頂いて、一途に大切にしなさいという事なのです。
自分の力で煩悩をどうにかしようとせずとも、「阿弥陀佛の願いを我が願いとする」と定まった時、 煩悩もまた自分を邪魔するのではなく、煩悩の身を抱えたまま、遊々と生きて往く事が出来るのだという事です。
特別に、「こうしなさい、ああしなさい、というような事を何も知らなくてもいいんですよ、 ただ阿弥陀佛の願いを大切にしなさい」というのが「門徒もの知らず」の本来の意味なのです。
その時、煩悩の質が変わります。 例えば、貪欲という貪る欲が、意欲という何事かを成そうという欲に変わり、 それが、私を引っ張って行ってくれるのです。
―――以上『顛倒』2017年4月号 No.400より ―――