正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第十八回
神光の離相をとかざれば
 無称光仏となづけたり
 因光成仏のひかりをば
 諸仏の嘆ずるところなり

七月は、無称光佛です。
曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
  神光離相不可名 故佛又号無称光
    因光成佛光赫然 諸佛所歎故頂礼
  です。

 偈文を訳しますと、「不思議な光はすべての姿や形を離れて名づけることができない 故に佛をまた無称光と申しあげる (光明無量の願を)因として阿弥陀佛と成られた、その光は輝きわたり 諸佛は讃嘆される 故に礼拝したてまつる」です。親鸞の和讃では、赫然と、故頂礼の単語が無いだけで、基本的な意味は同じです。
 『讃阿弥陀佛偈』と全く同じ意味の和讃が続きます。いかに親鸞聖人が、この『讃阿弥陀佛偈』の教えを私たち庶民に伝えたかったことが伺えます。当時の庶民は、文字が読めませんし、まして漢文は遠いものでした。そこで、親鸞は語り言葉で、大切な教えを伝えられたのです。

  言葉を観ていきましょう。「神光」は神様の光ではなく、「不思議な神や佛の光」です。

 「離相」は、「すがたかたちをこえていて説き尽せない」の意味です。だから当然、言葉では言い表せないので、「無称光」です。「因光」に、親鸞は、「光きはなからんと誓ひたまひて、無碍光仏となりておはしますとしるべし」と解説されています。「明無量の願をとして阿弥陀られた」という意味です。この「因光成佛」には、「そのようにして佛と成られた阿弥陀佛だから、その佛の明にって人が成佛する」という意味も込められています。


「無称光=言葉で言い表せないほどすばらしい光」には、先月号で申し上げた「難思議光」との深い関連があります。「難思議」の問題は「私の思い考えが、私を障碍している」ということでした。それはどんな思い考えかというと、「姿や形に囚われる」ということなのです。難しいですね。



 ここまで来ると、有名な佛教の言葉「色即是空・空即是色」に行き当たります。「色」とは「存在」、「空」とは「変わりうるもの=絶対なものではない」という意味です。

 物理学では、この世のあらゆるモノは「分子(炭素・酸素など)」からできています。そしてそれは、縁(条件)によって、また別のモノとして現れます。例えば、私たちの身体も土葬すれば、分解され分子となって土に還ります。火葬すれば分子となって空に還り、骨は埋葬されて土に還ります。そしてそれらの分子は巡り巡って、また別のモノになります。軒先でさえずるスズメか、庭のハスの花かもしれません。そのように、あらゆるいのち(存在)は繋がり合い、生まれ変わり死に変わり巡り巡っているのです。



―――以上『顛倒』16年7月号 No.391より ―――

          

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