正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第二十三回



  如来所以興出世
      唯説弥陀本願海


 今日の部分の訳は「釈迦如来が、この世にお出ましになった所以(ゆえん)はただ阿弥陀如来の、 海に喩(たと)えられる程、大きな根本の願いをお説きになる為だ」です。 先ず「如来」という言葉の意味です。

「如来=佛」ですが、「如」は「真実一如」という言葉で解るように、「如」ひと文字 で「真実の働き」を表します。それが「来」ですから、「真実の働きが私の処まで来て」という意味です。 「佛」は「真実を覚った人」ですが、「覚る」という事も、自分の力ではなく、 「真実の働きが来て下さって覚りを戴く」という事です。 さらに、お釈迦さまがお生まれになったという事は、真実が人間としてこの世に出現したという事なのです。


 四月八日の「花まつり」は、お釈迦様の誕生祝いですが、その誕生には、有名な逸話があります。
 生まれた時に、七歩あゆみ、天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と言われたのです。 もちろん、赤ん坊が実際に歩いて喋る事はありません。 「オギャー」と誕生された事に、お釈迦様お一人だけでなく、全ての人の誕生にその二つの意味が込められている。 という事なのです。

   「唯我独尊」はよく「自分だけが尊い」と誤解されます。が、そうではなく、 「私という存在は世界で唯一のもので尊いものだ」という意味です。 「天上」は「あらゆる歴史」、「天下」は「あらゆる社会」です。 SMAPの歌に「世界に一つだけの花」というのがありますが、あれですね。

 「七歩」は、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」という「六道」と呼ばれる人間の迷いの世界を「一歩出る」という事で、 「あらゆる人間は誕生と同時に迷いの世界に投げ出されるのだが、 その迷いの世界を尽くして一歩出る使命を持って生まれるのだ」という教えです。

 この二つの使命、言い換えれば「真実」を我々に説く事が、実は「阿弥陀の本願」を説く事になるのです。

 阿弥陀の本願とは「あらゆる人を摂取して捨てない願い」ですが、それは具体的には、アミタすなわち永遠無限の大きな視点から、 人間の社会の歴史の真実を伝え、我々に本当の事を知らせる事を通して成就するのです。
 気づいてみれば、私たちの悩み苦しみというのは、事実を事実として「受け取れない」ことから生じています。 「唯我独尊」は真実です。しかし、私たちは本来たった一つで他と比べられない存在なのに、 他者と比較して悩んでいます。 まさに私たちは、そういった自らが作り出す「迷い」の世界に生まれるのです。 と同時にそこから出たいとも思っています。 「七歩」です。でも何処かへ行くのではありません。自分の創り出す迷いの中に在る。 と気づく事が「出る」という事なのです。 私たちの「狭い世界」を破る「アミタ」であり、「広大な海」なのです。 という開放された、自在な生活が得られるのです。


―――以上『顛倒』16年12月号 No.396より ―――

          

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