仏光測量なきゆゑに
難思光仏となづけたり
諸仏は往生嘆じつつ
弥陀の功徳を称せしむ
六月は、難思光佛です。
曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』では、
其光除佛莫能測 故佛又号
十方諸佛歎往生 称其功徳故稽首 です。
偈文を訳しますと、
「その光は佛の他には測ることができぬ
ゆえに佛をまた難思議と号す
十方の諸仏も(衆生の)往生をほめ
(阿弥陀佛の)その功徳をたたえられる
ゆえに稽首したてまつる」です。
親鸞の和讃では、稽首の単語が無く、難思議佛を難思光佛と言い換えている部分が違いますが、基本的な意味は同じです。
難思議 という言葉が要点です。 同じ讃阿弥陀佛偈和讃の4首目に次のような和讃があります。
この和讃を通すと受け取りやすいと思います。 「難思議光は虚空のように無碍で、一切の有碍が碍りににならない、難思議光はすべてを包み込む」という訳です。
難思議ですから、私たち人間には、思ったり考えたりすることができないような光=佛=働きということです。
すなわち、この和讃の教えは、「思い考えることが出来ない事が、碍りを作らず、全てを包み込む」という事になります。 だいぶ見えてきました。何が碍りなのか?それは私が思い考える事だということです。 私の思い考えが、私を障碍している、ということなのです!
少し佛教を学んだ方が、「佛教は難しい」とよく言われます。 確かに、佛教の言葉は難しいです。しかし、そこで説かれている事は、実はとてもシンプルな事。 極言すれば、「素直な自分自身に戻りなさい」という自然な事を説いているのです。 また例えば「諸行無常」のように、事実を言葉にしているだけなのです。 ところが、それが素直に受け取れないのが「私」なのです。そう!佛教が難しいのではなく、私が難しいのです。
こういう事を考えると、35年前、親鸞の佛教を学びだした頃の自分自身の事を思います。 「何を訳の分からん事を、先生は言うとるのか」としか思えませんでした 。それは、私が世間の常識にどっぷりつかって、それが正しいと信じ込んでいたからなのです。
浄土真宗のことを「易行難信」と言います。行が易しいとは「南無阿弥陀佛と言うだけ」だからです。 難信は「なんでそんな簡単な事で救われるのか」ということが、私たちに納得できないということです。碍りは私なのです。
―――以上『顛倒』16年6月号 No.390より ―――